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労働に喜びを見いだす日本人。


昨日も書いた、先週のゴー宣道場にて、
「労働の価値を再発見する必要がある」と、切通理作氏からお話があった。

この一言自体は、自分の中でよく理解できる部分がある。
あれは夏にバイクで日本を旅していた時のこと。
伊賀上野を目指していた時に、曲がりくねった山道を、
田んぼや畑、そしてそこで働く人々を眺めながら走った。
新幹線からも田んぼが広がる日本の原風景、みたいなのは存分に楽しめるけれど、
新幹線から見るのと全く違う点は、田んぼのすぐ脇を通るとき、農家の人々が泥にまみれて汗を流して田んぼに向き合う姿を目の当たりにした部分だ。
そこには、ただ美しいと愛でるには農業の厳しさが全面に出過ぎていた。
もちろん、青々と天を向く稲の姿は美しい。生命力を感じるし、その生命力が自分たちの体や精神に精製されるということにも思いを馳せると、なお一層いとおしくなる。
しかし、その日本人の生命や魂の源たり得る米を作ると言う作業の厳しさを同時に刻むと言うことは、ただの感謝を超えた観念がわき上がって来る。

だからこそ私はその時に、伊賀上野出身の松尾芭蕉の感性の源を覗いた気分になったものだ。
そこには労働に対する畏敬の念が芽生えた。自分の想像力が一歩、前進した瞬間と思った。
たぶん、この想像力は昔の人なら当たり前に持っていた感覚で、自分が農業の厳しさを知らない、そもそもちゃんと働いたことが無い、現在の日本で労働をそう楽しんでいるように見える人が居ない、という部分に起因するように思われる。


今、他人の労働はどんどん見えにくくなって来ているという指摘も道場の中にあった。
物価がどんどん下がり、デフレで物が安い状態にみんなが慣れて来ている。
アマゾンの、一つの商品のページに通常価格と中古の安い価格が同時掲載されていると言うのも、確かに商品だけがそこにあり、それに対して複数の値段が付けられていれば、労働に対する想像力よりもまず、シビアに(自分にとっての)その物の妥当な値段を探るほうが優先されるだろう。

本も映画も服もヘアカットも、
「安ければいい」=「だれでもいいから付き合って」(泉木蓮氏談)
の状態から抜け出して、自分たちが生み出している価値に改めて目を向けて、
お互いの労働の価値を再確認しあうところから脱近代をはじめなければ行けないのかもしれない。
そうでなければ、今後もずっと、安いものが正義、経済成長が正義、という悪循環から抜け出せなくなる。誰もお金を使わずに、新しい世代は生まれず、私たちは年金をもらえない。
その結果、移民を受け入れるしかなくなる?!


日本人の倫理観として、労働に喜びを見いだす、という話があったのは、
私にとって斬新な視点だった。
ただ、今の労働者たちが働くことに喜びを見いだしているかどうかと言えば、疑問符をたくさんつけたくなるけれど、それでも「でも仕事が無かったら不幸でしょ(それは収入がなくなると言う意味以外においても)」という人は多いので、確かにそういう側面がある。
その感覚を、お互いの為にちゃんと大事にできれば、
価値観の再転換はそこから出来て、いい方に転がっていけば、と言うのが楽観的な見方かな。

お金は必要だけれど、それで自分たちの幸せを定義していたら、これからの時代ほとんどの人は不幸になるしか無い。経済成長を自分たちのアイデンティティに出来ていた時代は終わった。

再構築するべき価値を道場では「江戸時代に日本人が持っていた価値を取り戻す」、明治のスローガン和魂洋才の「和魂」と定義していた。
文明開化や敗戦、高度経済成長と長い過程を経て徐々に失われていったものが、
日本人全体として取り戻せるだろうか。
まだまだ自分には、その価値を検証するところからはじめなければ。

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