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「走れメロス」さながら!!


と、言いたいけれど。

ちょっと違う。



昨日の再放送でやっていた鬼平犯科帳、
サブタイトルは「あきれた奴」。


~あらすじ~
盗人の片割れを逃がしてしまった同心・岡村は、
仲間の居場所をどうしても吐かない又八を逃がす。
半年後、又八は片割れを連れて火付盗賊改に出頭、
お裁きの庭で鬼平に「あきれた奴らだ」と言わせしめたのであった。



こんな感じかな。

又八が(片割れを連れて)返ってくることを信じて
同心・岡村が又八の代わりに牢に入るというあたり、
「走れメロス」と近いように思われる。


しかし、又八と岡村の間には友情などない。
それどころか、盗人と警察。敵同士みたいなもんだ。
それに、昔からの友達でもなんでもない。
この違いは、大きいと思う。
どうしてこの関係で、岡村は又八を逃がすという、
ある種の暴挙に出ることができたのか。


それは、人間のコミュニケーションの可能性故ではないだろうか。
本来対立し、互いに一番分かり合えなさそうな関係だからこそ
生まれるコミュニケーションがある。
案外、嫌いな奴だからこそしっかり見ていて、
分析しているものだ。素直になれば理解しやすいはず。


そしてもうひとつは、傷つけること、傷つけられること、
あるいは傷つけあうことさえも
コミュニケーションの一環として羽ばたけるということ。

同心・岡村は妻を亡くした孤独を仕事に没頭することで忘れようとし、
又八を捕まえて拷問にかけた。
岡村はこの上なく深い傷を負っていたし、
又八も拷問で全身を傷だらけにされた。

けれど、その結果として二人は憎みあうのではなく、
互いを認め合い、信じあい、尽くしあうという形に昇華させた。
それは、ひとえに傷つくこと、暴力さえも
コミュニケーションのひとつとして成立するせいではないだろうか。
殴り合い、傷つけることでも
伝えることができる。
それをどう進化させて行くかは人間次第だと思うけれど、

コミュニケーションの手段は無限だ。




話は変わるけれど、この辺が戦争には反対できないと思う理由かも知れない。
おれは、戦争がなくなって欲しいとは心のどこかで思ってるけれども、
なくなるべきだとは思ってないんだと思う。
戦争がなくなれば、人間ではなくなるのかも知れないと思う部分がある。
戦うことが人間のアイデンティティとして存在していると思う。

だからもし戦争が本当にこの世からなくなったら、
その世界にいるのは人間ではないと思う。

これがおれの哲学だけれども、



しかし反対しておかなければならないものがある。

原爆や水爆などの核兵器、
その他の大量破壊兵器。

他にもあるけれども、これらは
一瞬にして全てを焼き尽くす
相手の顔を見ずに殺す、殺される
というこの性質が、人間らしさを奪っている、と思う。

原爆や長距離ミサイルが、コミュニケーションになりうるだろうか。

今のところ、答えは「No!!」


今年も、世界で一番暑い夏が近づきつつある。

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