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どうして今でも労働生産性が第一義なのか??


今の時代に対する疑問は尽きない。

そもそも、時代も何も関係ない疑問が自分の中にあるわけだけれど、人間がこの世に生まれて来る意味というのは個人個人が決め得るものじゃないの?自分が納得すれば、自己満足で終わっていいものじゃないの?というかそれで終わらせるべきものではないだろうか??それとも人間が社会的な存在であると言われる以上、社会に何らかの影響を与えなければいけないものなのだろうか??最終的には「我が人生に悔い無し」と自分の心の中で言えるかどうかが問題なのであって、影響の大きさや他人の評価ではない気がする。自分がその基準を他人の評価などに求めるのであればば別だけれど。

この話はまた最後にするけれど、人間は他の動物とは違うんじゃなかったのか?って思うわけ。



そんなことを考えるきっかけになったのは、数日前に在ブルキナ日本大使館のとある人と、ブルキナおやじの家で酒を飲みながら話したときに軽い議論になったことで、
私はその場で、割と軽い気持ちで「将来はニートになりたい」と言ったのがきっかけだった。
弁明しておくと、半分比喩、半分理想。

とりあえず、その場でよく分かったのは、大使館の人間にはどんな状況にあろうとも建前しかない、それが例え短パンにTシャツ姿の時であったとしても。


しかしそんなことよりも自分にとってもっと大事なのは、人間が人間となって道具を使いこなすようになり、農業革命や産業革命などを通して効率的な生産ができるようになったときに、
それを目指すのは人間がもっと自分達自身と見つめ合うことができる時間と作り出すためじゃなかったのかと思うわけ。
それも、一部の貴族階級ではなく、全ての人が。

「江戸時代には平均の労働時間が一日4時間だったらしい」と言ったのは、そういう意味で江戸時代の方がバランスがとれていて、人間らしい時間がより多く送れていたんじゃないかとおもうから。

私は会社に入ったこともないのに「社畜」とか言ったけれど、今の社会がおかしいと思うのは、本当なら労働の効率化が為されて
多くの人が一日に数時間働いたら充分という状態にできるはずなのに、
労働を効率化してやっていることが、労働と価値創造を独占する側と失業する側という二極化。

少し上の世代たちが「フリーターが好きなこと出来て素晴らしい」と言って、その理想はよかったと思うけれど、
その時に労働を得る権利を手放した所為で、私たちの世代にまでそれが響いて、40歳以上の世代に労働の独占を許してしまったのは確かに、若い世代にも責任がある気がする。

けれど、それを修正しようと言う動きが社会にあまり見えてこないことはおかしいと思う。

もしも働かずに済むなら、楽しいことだけやって生きていけるならそれがいい。
でもそれは無理。今のところ、頑張ってこれだけ労働効率を挙げました。
その分、時間に余裕が出来たはずだったのに、その価値創造を一部が独占して、
「働かざる者食うべからず」ってなんか変じゃない?


それに21世紀にもなって、人間の価値を労働生産性で決めているって言うのはどういうことだろう?
骨の髄から資本主義に染まる必要なんてないと思うけれど、
結局いつまでも仕事が出来る人が稼げて、仕事(努力)をしないのではなく、持って生まれた能力が低いために出来ないという人だっているはずなのに、
フェミニズムとかの近代思想はそういうところには突っ込まないのだろうか?

私は大いに疑問を抱く。




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