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勝手に自分に言い訳している毎日


ブルキナに派遣される前の、水の防衛隊のための技術補完研修とか駒ケ根訓練所やらで、「かまどようこさん」の話を聞く機会が多かった。駒ケ根では直接、本人が話をしてくれたりもした。一緒に技術補完研修を受けてマダガスカルに配属になった友達の前任者で、マダガスカルの村で改良かまどを広めた実績が評価されたことで、その人の活動がよく取り上げられていたのだと思う。
その人は謙遜して「自分は何もできなかった、なんの技術も持たずに行った。結局ただのちんどん屋だった」と口癖のようにしきりに繰り返していた覚えがあるが、かまど普及の大きな要因になった、住民に深く受け入れられ、愛されるような振舞いをしていたことが素晴らしかったのだろうと思う。この基本的な認識は変わっていないけれど、自分がこの人のことで勘違いしていたと思うのは、ただ住民と仲良くなった、家族や友達のようになったというそれだけではやはり、かまどようこさんのように評価されるような活動にはならないのだということが最近になるまで分かっていなかったことだ。

自分が評価ばかりを求めて日々を過ごし、活動をしているわけではないけれど、実際にシビアに求められているものでもあるし、評価は結果についてくるのが道理というものであるので、ある日JICA事務所で先輩隊員の報告書をぺらぺらとめくっていたら、報告書の本文の横に手書きで「いい活動していますね」と書いてあるのを見てすこぶる落ち込み、若干の嫉妬を感じている、私というのはそういうものであって。「いい活動」が果たして何なのか?というところを掘り下げることなく感情的にネガティブに受け止めるだけではただ泥沼に足を深く沈みこめるような行為なのだけれど、要するに本当にその先輩隊員のように報告書に「いい活動していますね」と書かれるような活動が自分にできる気が全くしないというか、根拠なく考えられない。派遣前にはかまどようこさんの、住民に受け入れられているという部分ばかりを見て「自分もあの人のような活動ができたら」と思っていた自分の甘さというものを最近、まざまざと思い知らされている。実際に自分でブルキナに来てみれば、周りが全部黒人の中で一人だけ白い肌を晒していけば目立つのは当然で、「支援に来ました」と言って拒否されるはずもなく、こういう環境で多少文化が違っても向こうがそれを許容してくれたりもし、来る前のイメージと全く違って仲良くなるだけなら全く簡単にできてしまう。そしてその次のステップになかなか思いが至らないという自分にがっかりする。
このままだと専門家の人に言われた通り、ここでただの「伝説的な日本人」にはなれるかも知れないけれど、そのあとにここには一体何が残るか、という問題に今になってやっとたどり着いた。一生こうやって、遠回りばかりしている人生なのかもしれない。


大学で経済をやっていたときにすごく印象に残った理論があって、ただの何でもない「等価交換」というものなんだけれど、つまり資本主義経済のもと、市場が働いているときには全ての商品が適切な価格で取引される、その物の価値で間違いなく取引されるという、ちょっと聞いただけでは怪しくなるような理論。だけれど、これを飲み込んでしまえば、逆にこの理論に頼って何でも「適切な価格で取引されている」と結論付けることができる、ちょっと便利な理論だ。私はそういう理解でいる。
そしてそれが労働市場でも成立する、というのがこの理論。
完全にお金のみを報酬と認識してこの青年海外協力隊に応募したわけではないので、もらえるお金の話だけで片付けてしまうのは本当は間違っているのだけれど、とにかく向こうが提示した条件でこちらが納得しているのだから、市場は成立している。つまり等価交換が成立している。ひと月にブルキナでの生活費が20万フラン(4万円ほど)と、日本の口座に積立金として10万円位。つまり、私が悩みながら村に出かけていったり同僚とおしゃべりして過ごす毎日があって、そんな毎日が30日ぐらいに大して日本円にして全部で14万ぐらいの価値が認められていると考えられる。私の1か月のブルキナにおける労働、14万円。どういう労働にどれだけの報酬が適切なのかなんて、何をどう算盤はじいていいものか全く分からないのにこんなことをいうのも変かも知れないけれど、果たして本当に等価交換しているのだろうか???と疑問の3連符。

果たして自分がどれくらい月にもらっていれば納得するかということは全く持って分からないし、今もらっている額がちょうどいいのかどうかも突き詰めていないのだから、本来で行けば前提を確かめないままこうして曖昧な罪悪感とともにいる意味というのはどこまで行っても無価値でしかないのだけれど、ちょっと世界を見渡してみて、本当に価値をつけられると思う生産活動をしている(と、私から見て思える)人たちを見ていると、自分の価値を何度、確かめてみたところでやっぱりこれっぽッちにもならない、何をやったとしても所詮はゼロという答えに何度もぶつかってしまうわけであり、本当は生産活動が人間の存在価値ではないという哲学も一方で持ってはいるけれど、それをせめて自分のなかでだけでも絶対の尺度にできるわけでもなく、どこまで行っても自分の無価値さに追い詰められ続けるばかりで、何度計算をしても答えが同じ、自分の無価値さに追い詰められて、自分はやっとそれに耐えきれずにこうして身体を動かして、もがいているのかもしれない。そうだとしたらどこまで行っても後手後手、やっぱりこの状況はひっくり返らないな、という結論に達する。



そう考えると、またそういう無価値な自分が、でも他人のやっていることには価値を見いだして、あれにはいくら、と言って価値を認めてお金を支払っていたりするから、どうしてこうも世の中は矛盾だらけなんだろうか。

まぁでも本当は、無価値だと思うぐらいが自分を肥大化させずに済むし、気は楽に持てて、案外あっているのかも知れない。

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