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誰にでも良心があふれる泉が存在する。



ホテルのテレビでマイケル・ムーアの『キャピタリズム~マネーは踊る~』を見たときに、2年前に一度見た作品だったのに、改めてすごい衝撃を受けた。いやむしろ、2年前に一度見た作品だったからこそ改めて衝撃を受けたんだと思う。あの映画は2009年に撮られていて、その中で、2007年からたった2年間という短い時間での大きく変化が取り上げられていた。あの映画からまた2年たって2011年、またこの短い2年という時間の中で世界は大きく変わっていることに驚かされる。
あれはなんだった?全てを自分で体験することは不可能だけれど、それにしても自分の想像力の欠如?そしてもっといろんなことがあった、世界中で。それをすごく感じている。諸行無常とはよく言ったもので、たった2年で全く変わったと映画では言っていた。よく分からないけれど技術の進歩も相まっての変化でもあるのだろうか、あれは2009年の映画、あれが作られるまでの2年間とそれから今までの2年間、その時間のダイナミズムに畏怖した。

それから、退避前後のブルキナファソから離れていた、もっと短いたった半年ほどの間に、目には見えないし、まだ自分の肌で実感したわけでもないけれど、ここでも確かに大きな変化があったのだと思う。それは今回の騒乱を静観していたブルキナべ本人たちにとっても大きな衝撃だったみたいだし、国際社会においても「脆弱社会」というレッテルを貼られる出来事だった。
首都はJICA事務所の近くの、隊員たちがよく行くスーパーも襲撃されて、壁に銃痕が残っていたり、パソコンなどを置いていた透明なガラスに囲まれた棚の中身がきれいになくなっていたりした。万が一にもそういう事態が身近に起こりうるということを知ってしまうと、もう今まで通りには暮せなくなってしまうんだろう。リスクは常にあるということを、でも果たして知らないほうが平和に暮らせていたのに、どっちのほうが自分は満足して暮らせるだろうか?実際にあるリスクを知って不安を抱えながら生きるのと、全て知らずにのほほんといるのと。
常にそういう社会のひずみも、地震のように少しずつでも確実に動いてエネルギーを蓄えながら、普段は何事もないように気配を押し殺して爆発する時を待っている。

ブルキナに着いて最初のブリーフィングで「今回の騒乱で一番苦しんでいるのはブルキナべ、これは間違いなくブルキナの教科書に載るくらいの歴史的な出来事になる。」と言われた部分に何か感じた。それは言葉では言い表せられないことだとかそういう類のものではなく、ただ自分が感じたその時にその言葉をメモしておかなかっただけという怠慢の動かぬ証拠であるのだけれど。
ただ、これまでに起きてしまった騒乱は仕方ないけれど、これから起こる、あるいは起こしていく、それは開発という言葉が目標としては一番しっくりくるものではないだろうかとは思うけれど、それが成功したならばいいけれど、もしまたひずみのほうが大きくなって同じような事態になったときに、その変化とひずみと争乱とに責任を取ることができる人が出てくるだろうか、という問題が残っている。もちろん、ゼロからのスタートではなく、今までに先人達が気付きあげてきた過去の上に作る、新しい時代の城を造る者として、自分たちの足元にすでにできているものから逃げることなくちゃんと受け止めたうえで。

果たしてこれがどういう巡り合わせに寄るものなのか、私はどちらにも実感わかないまま、多くの人たちが傷ついていることとは、言わば疎外されたようになにも悲しい思いをすることもなく今に至っていて、何時まで経ってもこの変化の一番源流の部分を掴んで受け入れることができずにまたブルキナに戻ってきて、前に居たときと表面的には同様に振舞う人たちに見事なぐらいにだまされて安心しきっている。もしかしたら、周りの振舞いから感じ取ることのできない、これほどに鈍感なのは世界中に自分だけかも知れない。



私は割とアンテナを張っていない、人の話し方や言葉遣いには注意をあまり払わない、人の言うことに見た目ほど関心を持っていない人間で、しっかりしているように見られていてその実、誰も想像つかないくらいにぼーっとしていて、反論なしに人の意見を受け入れたりしてしまうからいけないと思うんだから。検証を重ねたりということもしない。

だけれど、今は英雄と位置付けられておる人も、歴史だとかいったもっと長いスパンでものを見たらどういう位置づけをされるのが相応しいのかは確かに考えものだと思う。結果も、この地球の何億年という長い歴史の中で見ていけば、途中経過のそれぞれにすぎないから、結果は結果としてとらえることに異論はないというか、それしかないけれど、だけれど私たちが結果と呼んでいるものもそのうち、小さな要因や要素で見ることになるもっと大きな世界や時間軸があるということは常に心のどこか片隅にでも留めておいたほうがいいものだと思う。

しかしそういうことを考え出すと、変化に完全に中立であるような行動などないし、結果や途中経過の全てが自分たちの思考や行動の結果ではなく、むしろ偶然の積み重ねでそうあると思うならなおさら。ほんの小さな変化からあまりにも大きな変化が誘発されたり、その中からまた小さな変化が起こっていく過程をもれなく完全にトレースすることは不可能でもあるし、だから勘違いや山勘は世界を脳内で再構成して補完して新しい城を創るために思考・判断していくためには絶対に必要なものだったりする。



マイケル・ムーアの『キャピタリズム』の結末、住民たちが「コミュニティ・パワー(住民パワー)!」と叫びながら奪われた家や職を取り戻そうとするシーンは何度見ても勇気づけられる。あんなに暗いタッチで始まり、終始、権力と金の頂点集中にひたすらに嫌味を言うだけだったらどうしようと思っていた映画の世界が、こういう形で見る側の胸をすっとさせてくれ、安心させてくれる作りになっているのはいい。理不尽には泣き寝入りするしかないように思われた人びとが、団結して自らの状況を訴え不平を言って、自分たちの正義を示し、戦う方法があるんだという事実に勇気をもらえる。監督本人が強欲な人びとを私人逮捕しにいくシーンも、同様の勇気とたっぷりの皮肉を味あわせてくれて楽しく見ていられるし、自分たちも理不尽に対して立ち上がることができるし、泣き寝入りせずに自分たちの正義を声高に叫んでいくことが必要なことであるのだと教えられる。


こうして短期間に物事が大きく変化することを実感してしまったこと、特に最近は今まで考えられなかったような人災にしろ天災にしろ、規模や質が全く違ったことが起きていて、もうはっきり言って次に何が起こってもおかしくない、というくらいに世界が不安定に見える今。乗り越えるために必要なのは、他人と相対化して美人投票によって形成される正義ではなく、文字通りそれぞれの人びとが自身の(利益ではなく)良心に基づいて正義を明確に意識化し、その正義に基づいて行うことを辞めないことがますます重要になってくる。

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