スポンサーサイト


上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

我々は英霊にどうこたえるか


6日、靖国神社にて
「我々は英霊にどうこたえるか」というシンポジウムに参加してきた。
講師は、小林よしのりと高森明勅。

遅れてしまうかも知れないと思いながらも急いで参拝を済ませていったのは、
普段、広島に住んで入ればなかなか来ることができる場所ではないということと、
英霊たちのことを考えるのに、靖国神社のある種特別な緊張感や神聖さを感じておきたいと思ったから。
例えば、1年365日毎日が、誰かの命日だという事実に、私は今まで鈍感だったと気付いたから、
それだけでも意味があったと思う。

私が軽々しく
「英霊」
と一言言ったとしても、その言葉の何と軽いことか。
乏しい想像力で、一体戦争のどれだけを想像し、思いをはせることができて、
戦争で散っていた人びとに感謝することができているか…
歴史の連続性を実感して、彼らの行為にこたえることができるか。
ただ感謝の念だけあっても、それだけで彼らの行為が報われるわけではないということを、
必死で考えて生きていかなければいけないと思う。


私は思うのだけれど、今の若い世代にとっては歴史の連続性なんて、
感じることはあまりないと思う。
例えば戦時中の若者は、日本の3000年の歴史を背負って戦地に赴いたりしている。

一方で、今の若い世代にとって、受験勉強でない、経験にできている生きている歴史というのは二つだけ。
戦時中・戦後と、じぶんたちが生きている現代だけ。
戦中戦後のみじめな経験やものが何もなかった時の話ばかりが今の日本では熱心に語られて、
戦争以前の長い歴史や、戦後の焼け野原から今の豊かな生活に至る高度経済成長については、
教科書に載っているから知ってはいるけれども、自分たちと直接は結び付かない。
そうすると、ただ歴史が二つだけしかないということに留まらず、
その二つは対立する概念として存在する。
戦争と平和。
悲惨と幸せ。
弾圧と自由。
みじめと豊か。
否定するべき存在と、肯定するべき存在。
もっといろんな対立項はあると思うけれど、実際、そういう語られ方ばかりしていた。小林よしのりが「戦争論」を描くまでは。

自分たちが死ぬこと、あるいは自分たちの死にざまが未来(つまり現代)の日本を救うと思って散っていった若者たちがたくさんいた。
今、英霊たちが自分の命を賭して守りたかったものを、
もし私たちが守り切れなかったら。手放してしまったら。
それが、すべての英霊たちの志を踏みにじることになってしまう。
英霊たちの存在を、志を守っていくために、私たちはどう振舞うべきか。

小林よしのりは、強い口調で
「英霊たちの死を犬死にはさせない。
最後の一人になっても、
世界中のすべての人が敵になっても自分は英霊を守っていく」
と宣言した。


そのために私が、私たちができることは何か。
頭では分かっていても、ピンと来てないこともたくさんある。

だけどまず、靖国神社や護国神社に行って、
日本を守っていった英霊たちに一歩近づき、
彼らのこころを理解しようとするところから始めるべきなんだろう。


広島では8月15日の終戦記念日、広島護国神社で
「戦没者追悼平和祈念の集い」というものが開催されて、
昔の戦地を訪ねて歩き、執筆活動をしている
笹幸恵さんといういう方が来、講演をされる予定。

護国神社も行ったことがないし、いい機会だから行ってみようと思う。
スポンサーサイト

| そば屋さんちのふろふき大根 ホーム |

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:
http://karehausagi.blog38.fc2.com/tb.php/475-3463b76e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザーのみ)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。