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同情の押し売りならお断り。


『もらう』こと、『同情を押し売りする』ことに疑問を感じないこと

「アフリカってこうだからね。めんどくさいでしょ。」
と、一緒に村に来ている同僚がポツリとつぶやく。週末の昼下がり。私もブルキナにきて9ヶ月が経ち、いい加減この台詞にも慣れてきた頃だ。
さて何がめんどくさいのかと言うと、村人と待ち合わせを、例えば14時にする。14時に私たちが村に着く。日本の感覚で言えば、もちろん村人たちはそこに集まって待っているはず、だが…
「毎回こうして、村人が集まるまで30分とか1時間、待たなきゃいけないなんてね。」
公務員他、オフィスで働いている人たちには多少、そういう感覚がある。時間は守るもの。出勤時間や退社時間が決まっていること(守るかどうかは別にして)、書類を書く際に様式や期限など細かいルールがあることなど、いわゆる人間相手のサービス業の感覚があるせいだろう。が、村人は違う。基本的に太陽や自然のサイクルで生きている人々なので、私たちの持つ時間感覚に対してはかなり曖昧な人が多いし、のんびりしている気がする。学校に行っていない人が多いというのもひとつの原因かもしれない。私も一人で村に行ったときに、村人が集まるのを1時間ちょっと待ったことがある。その間、一緒に待っている村人のおおらかな態度というか、何も気にする様子もなくおしゃべりしている姿を見て大いに不安になったりした。この人たちを急かしたほうがいいだろうか、と。しかし結局時間の流れを共有していないのは自分ひとりなので、一人で不安になっていながら、平静を装って一緒におしゃべりを続けるしか手はない、と自分に言い聞かせた。そうして待っていたら、時間が遅れただけであとは万事うまくいっていたので、改めて「そういうものなのだなぁ」と思った。村人とランデブーをして、そのときになって連絡が取れなくなるときもある。待つことを嫌うときには、出直すこともある。実際にブルキナベたちと働くまでは、何度アフリカの村人のこういう習慣の話を聞いてもこの感覚は知らなかった。約束をして村人を待って1時間過ぎることは、珍しいことではない。その日もそういう状況だった。
さて、村人が集まるのを待っている間にではどうやって過ごすかというと、ひたすらおしゃべりをしていたりする。その場にいる村人数人が相手なので、大体はモレ語でしゃべっていて私は理解できないが、知っている単語が出てきたりはする。知っている単語というのは簡単でよく使うモレ語の名詞だったり、モレ語にはないフランス語の単語だったりする。そういうのをキャッチして、今は穀物の値段の話をしているとか、プロジェクトの話をしているんだなと推測できる。が、それがどういう内容かは、皆目見当がつかない。黙って座って聞いている振りをしながら全く別のことをひとり考えていたりすると、時々突然話を振られたり、ところどころ同僚がフランス語に訳してくれる。で、そのときはなにやらPROGEAや昔のプロジェクトの話をしているようだった。メガホンや自転車の話をしていた。メガホンなんてものが村にあるのか、と思いながら聞いていた。ただ、それを聞いてどうするでもなく、でもわざわざフランス語に訳してくれたのだから何か反応しなきゃと思って、聞いて見た。「電池で動くタイプのものか?」搾り出したのがこんなくだらない質問だった。ふんふん言いながら聞いてるだけのほうがもしかすると、まだましかもしれない。
そうよ、というシンプルな答えに同僚が続けた。以前に行われたプロジェクトでね、各村に支給されたの。村を巡回するために自転車を支給したプロジェクトもあったわ。でもPROGEAは何にもくれないわね。
「c’est ça le problème(そういうところが駄目なのよ).」
この台詞を聞いた瞬間、次の言葉が出なくなった。村人ならまだしも、同僚からこういう台詞が出てくるとは想像すらしてなかった。プロジェクトの専門家はそういう点について、村人にしっかり説明していて、PROGEAが村人に何かものをあげることはしないことを理解させたと言っていたが、農業省職員のほうがそれを聞いていないのか、それとも聞いていてまだこういう台詞が出てくるんだろうか。時々、こちらの人々のもらうと言うことに対する無邪気さ、無神経さみたいなのを感じる。ただお金持ちに対する社交辞令ならいいのに。今回特に感じたのは、日本人とは違うという感覚だけでなく、確かに、いわゆる援助漬けみたいな感覚があるのかもしれないということ。もらうこと、もらえることが当然と思っている部分というか。

しかし最近、そういうものの考え方が偏見に基づいてるなと考え直してみる。みんなが低開発国あるいは被援助国の援助漬けの話をし、理想的な援助の形を議論し、ブルキナベは「平気でものをねだる」と話しているのに影響されてしまっているからこそ私も、ブルキナベのそういう言動に特に注意を払って反感を感じてはいないだろうか?都合よくブルキナを低開発国あるいは被援助国に位置づけ、低開発国あるいは被援助国の人間の振る舞いに神経をとがらせて、それが低開発国の人間の特徴と言って決めつけてないだろうか。いや、そういう部分がある、確実に。つまり、ブルキナベや被援助国の人間がそういうことを言えば「甘えてる、援助漬けの所為だ」と糾弾しようとする姿勢。
逆に言えば、先進国の誰かがものをねだったとしてもそれはその人の性格。不快にはなるかもしれないが、その原因なんて私たちは知らないし、それを矯正する必要があるとはあまり考えない。

そうじゃない。そんなふうにずうずうしいのは被援助国の人間の特徴じゃない。日本人だって同じようなことを言っているじゃないか、と思わされたことがあった。
ブルキナ協力隊22年度1次隊の間で、今回の地震災害に対して義捐金を集めるためのチャリティプロジェクト『がんばれ日本!ブルキナTシャツプロジェクト』というアクションが提案された。被災して暗い雰囲気の日本を励ますメッセージをプリントしたTシャツを生産してまずは自分たちで着、それで日本の災害をアピールしながら義捐金を集めようというものだ。そしてあわよくば、ブルキナベたちにもTシャツを買ってもらおうということ(つまりブルキナベから義捐金を集めようということ)を企んでいる。
プロジェクトのコンテンツとしては、
①ブルキナでTシャツを量産することでブルキナにお金をおとす⇒経済的アクション
②Tシャツ着用により、地震のことをしらない、日本のことをしらない人へアピール
③売上金を義援金として送金。日本赤十字など。
という感じ。
私はここでシンプルに問いかけるが、地震が起こったら、たくさんの身内の人間がそこで苦しんでいたら、それを自らアピールすることが正当化されるか?自分は不幸だからと義捐金や募金を集めることが正当化されるか?私は首を縦に振ることはできない。絶対に無理。他人のことならまだしも、自分たちの不幸を自分たちで宣伝して相手に同情を強要することなど、許されない。
ものを食べながら手を差し出してきた乞食の子供に対して腹が立った、とある隊員が言っているのを聞いた。ブルキナベの目からも明らかに一般的なブルキナベよりも金を持っていて、基本的に不自由のない生活を送っている私たちが、地震で多くの日本人が亡くなっているという現実に直面して「私たちは不幸だ、私たちの家族が大変なことになっている」と呼びかけることは、構造的には同じじゃないか?私たちだって左手で食べながら、平気な顔をして右手を差し出してないだろうか。そして個人的な独断と偏見からものを言うけれど、モラル的にブルキナベよりも下じゃないか?とてもやさしくて私たちや私たちの家族を常に気遣ってくれるブルキナベたちを相手にすると思うからこそ、余計にそう思う。同情をしてくれると分かっていて、可愛そうな自分たちをアピールするなんて…そんなのはできない、と私は思う。
私は街にあふれる物乞いたちにお金を渡したことはほとんどない。スマトラ沖地震やハイチの地震のときなどにも、びた一文募金していない。多分、地震の直後にインドネシア人に会ったとしても、募金らしい募金をしなかったのではないかと思う。そういう後ろめたさもある。自分たちの不幸だけ、世界中のみんなに覚えていてもらいたい、同情してもらいたいと言っているような今回のプロジェクト…私は賛成できない。他の人たちがどれぐらい物乞いにお金を渡して、インドネシアのためにどれくらい募金したのかは知らないけれど、自分たちの不幸を胸を張って知らせられるほど、他人の不幸にも敏感になっている人なんて、どれだけいるんだろうか。
尚更、ブルキナの識字率・5歳未満児の死亡率・人間開発指数などのデータを知り、物乞いのあふれる街を見てまだ日本の災害をここでTシャツにしてアナウンスしようという根性は、どんな形にせよブルキナの発展に寄与するために来た人のすることだとは思えない。ここでは黙っていても多くの人々が不幸な形で、日本でなら防げる原因で亡くなっているというのに。
私は、堂々と悲劇の主人公を演じて同情を集めるようなまねなんてできない、と今回のTシャツプロジェクトの話を聞いて思っている。今でさえ、優しいブルキナベたちは日本のニュースを聞いていつも私に「家族は大丈夫か、日本のみんなは大丈夫か」と声をかけてくれる。街の教養あふれる人たちだけでなく、村に行ってもそうだ。活動で村に行ったら、日本のためにみんなで黙祷してくれた村もあった。そういう人たちだから、もしも「日本に同情して欲しい、義捐金を送って欲しい」と言ったなら、多分本当に喜んで同情してお金を出してくれそうな気がする。自分たちのポンプを維持するお金も四苦八苦して出している人たちだけれど。だからこそ余計に嫌だと思うのかもしれない。ためしに聞きたいけれど、誰かルワンダで虐殺された人々のために黙祷したことがある?コードジボワールでの市民虐殺のニュースを聞いて、なにか感じた?スマトラ沖地震の被害者のために募金をつのるために街頭に立ったことはある?100円玉で買える、5分で飲み干すような缶コーヒーニュースじゃないんだよ、ブルキナべにとって、日本人が地震と津波でたくさん死んでいると言うニュースは。

…少し、感情的になってしまった。ブルキナの村人に対しては冷静でいられるのに。
日本人なんだから「日本だけは特別!」とまでは言ってもいいかもしれない。だけれど、日本人じゃない人にまで「日本は特別!」と無理矢理言わせようとするのは、果たしてどうだろうか?

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