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亡・個性の時代


働かなくなったミツバチの話をしよう。
ミツバチがなぜよく働くのだろうか。ミツバチが、ミツバチだからではないので悪しからず。ミツバチは寒い冬の間は働かないので、その間、砂糖水などを与えて養わなければならない。そこで、戦時中の話だが、年中あたたかく、いつも沢山の花が咲く東南アジアにミツバチを連れて行って、日本よりもずっと多く蜜を集めさせて儲けようとたくらんだ養蜂業者がいた。その人は軍の許可を取って実際に東南アジアで養蜂を始めた。当初は思惑通りに多くの蜜を集めることができたが、徐々にミツバチの働かなくなった。花が年中咲き乱れ、日本のようにあくせく働くなくても必要なだけの蜜を集めることができるならば、必要以上に働くことはないのだ。そうして、ミツバチは働かなくなった。


村に行って村の人たちと話をしていると、私を先進国から来たボランティアと見込んでか、村や国の抱える問題、課題をいろいろと話してくれる人達がちらほらいる。話を聞いていると現象的には貧困国も先進国もあまり変わらない問題を抱えているものだなぁと思うので、この際失業問題その他の社会問題を解明・解決するための一つの手段として、ミツバチを研究することをここに勧める。私は専門外なのでそういうことはやらない。


失業問題は、思うに産業革命以降の生産効率が飛躍的に伸びた時代からの現象だと思う。産業革命によって生産効率が飛躍的に上がった結果、人間は一日4時間働けばすむ時代がやってくるだろうと予言した人がいた。ちょっと記憶が曖昧で、誰が言ったか、果たして本当に数字が4時間で合っていたかどうかは自信がないが、とにかく労働時間を極端に短縮することができ、あとは遊んで暮らせるようになるだろうと言った人がいた。実際には先進国になればなるほど労働時間が長くなってくるようでどうしたものかと言っていたところだろうが、不況(景気循環)や失業者あるいはNEET、はたまたワークシェアリングという形で今の社会は異常なほどの一人当たり生産性の高さを調整しようとしている。増えすぎた人口問題は、その人口をすべて養うための食糧生産よりもむしろ、それぞれの人々に与える役割、個性の不足のほうに頭を抱えているように思われる。

70億人がひしめきあうこの地球で、それぞれの人々がどのような役割・立場を割り振られ、どのような関係を築くことができるかというグローバルイシューをデフォルメし、シミュレーションとして体験できる、貿易ゲームというものがある。何を隠そう、協力隊の語学訓練などが行われる駒ヶ根訓練所にて知ったんだけれど。体と精神全体を刺激し、感じさせ、共有するべき世界の弾力性、ダイナミズムを組み込んでいて、名著『世界が100人の村だったら』よりもよっぽど面白いものだと個人的には思う。戦争を表現できてないところが強いて言うならば、欠点だろうか。その貿易ゲームの中で後進国(資源も技術も無い国として位置づけられる)のプレイヤーとして参加した時に実感させられるのは、本当に豊かな国からの援助なしに先進国のような経済成長するのは不可能だということ。周りの国々がどんどん発展していくのを指をくわえて見ているだけしかなく、「先進国プレイヤーの方は仕事にばかり集中して黙々と働き、後進国プレイヤーの人達は楽しくお喋りしてるというのは現実を反映していますよね」と言うところまでは微笑ましく聞いていられるが、さすがに解説者も「後進国の人は平気で援助を乞うのも当然ですよね」とは言わない。援助なしにはできることが本当に無くて、あからさまに援助を期待してなにをするのもやめてしまった後進国プレイヤーもいたのだが。そこまででなくとも、「困ってるんだから助けてくれてもいいでしょ」とほとんどの後進国プレイヤーは思ったのではないだろうか。が、それを体験しても尚先進国根性というか、上から目線を捨てようとはしない人は多いように思われる。私の主観だが。


後進国に何らかの支援などで訪れたことのある人には必ずと言っていいほどある経験ではないかとさえ思うのだが、街を歩いていればよく「日本人は金持ちなんだろ、援助に来たんだろ、だったら金をくれよ」と声をかけられる。それはイスラム教の施しの精神に起因するものだと考えるのがおそらく日本人にとって一番気持ちいいのだろうが、果たして物の乞い方までコーランに書いてあるのだろうかと思ってみたりする。ある同期隊員は、ブルキナべのそういう態度に心底腹が立ったと見え、「そんなに金が欲しけりゃ、(ブルキナ国現大統領である)ブレーズ・コンパオレに頼みなよ」とい言い返したそうで成程と思わされる、気の効いた返しだなぁと思った。日本とは比べ物にならないほどの格差問題だとか汚職問題が実在するというのも、後進国の現実なのであるから。村では電気なし水道なし生活どころか餓死する人々さえいるというのに、国家エリートだとか大企業の経営者とかになれば、場合によっては先進国の富裕層にも匹敵するような生活をしているんだろうと…実際には見たことないけれど、そのぐらいの想像はつく。

「WIN-WIN関係」という言葉が最近流行だが、現在の国際情勢もこの言葉を持って語られることが多いだろう。気候変動などに関してはこのWIN-WIN関係がうまく形成できないケースが多いようだが、国家や企業にとって経済的な観点から見れば環境問題に対処することが場合によってはLOSE-LOSE関係に陥ってしまう場合もあるから当然と言えることで、そのような状況で少しでも自国の利益を追求すれば、相手国を「裏切る」という行為が最適という答えが出る囚人のジレンマに陥る。環境問題に対処することでWIN状態を造り出すことを目的とした仕組みがCO2排出権取引などだが、実現にはまだまだ多くの困難が伴うようである。
援助の場合は国同士のWIN-WIN関係が環境問題のケースよりも築きやすく、というのも被援助側にとっての利益は援助そのものであるわけだし、よって被援助側が援助側に何らかの利益を与えることができればよい。これは二国間関係の中でという話になってくるが、もっと多くの国が存在するケースでは、援助‐被援助の二国間関係の外から援助へのインセンティブが与えられるケースも考えられる(例えば国際社会での評価・地位が高まるなど)。また、最近の援助の傾向として環境とのWIN-WIN関係も含めた二重のWIN-WIN関係の形成も意識されていることが多い。

ちなみに生産効率の相対的な低さがその存在の必要性を決定するものではない(生産性が相対的に低いものにも存在価値はある)と説いたのがリカードの比較優位説で、つまり後進国も(援助という形ではなく)その生産能力をもって先進国と利益を高めあう関係を作り出すことができるという理論はある。国同士の関係をどうこう言うほどの考えを私は持っていないが、果たしてそういう関係が個人の間でも作れるだろうかと考えてみる。
実際に個人の関係になったときに、特に後進国の村人と私たち・先進校のボランティアと言う関係になったときに、双方が納得できるWIN-WIN関係と言うのは果たしてあり得るのだろうか。
後進国の村人同士のWIN-WIN関係で言えば、(私の隣人によれば、人に物をねだることを平気でさせる要因の一つでもあるらしいが)村人同士の助け合い、土着の保険制度だ。村の中で食糧が無くなった家に食料を施したり、誰かが亡くなった場合にはみんなから葬式代を集める、あるいは村のある子どもが学校に行くための学費などを村人善人で負担するなど。これは、自分の身に何らかの危機(飢えなど)が迫ったときに、みんなから助けてもらえるという相互関係だし、学費を出すケースではそうして出世した者の稼ぎは村の稼ぎとして扱われる。また一方で街に出かけたときにお土産をみんなに買ってくるのも、別の誰かが自分にお土産を買って来てくれるのが普通と言う感覚も、これに端を発している。だからこそ、困ったときにも困っていないときにも、人に物をねだるなどという行為を通して関係を保っておくことは重要な意味を持ってくるんだろう。自立と言う言葉からは程遠い感覚だが、一人で背負うにはリスクが大きすぎるということを考えれば当然のことだろう。こうしてお互いのリスクを減らしあう関係がWIN-WINになっている。最初に「後進国の村」と書いたが、日本を始め先進国でもある、いわば伝統的なWIN-WIN関係だ。(村に入れば、自動的にこのシステムに組み込まれると思われる。その際に気をつけておきたいのは、相手の好意をだたの好意として受け止めていいかは疑問であるということ。それはつまり、村の保険制度の構成要素として扱われている可能性もあるということで、もちろんこちら側から好意を示すことも求められている可能性もある。)


こんなことを考えるきっかけとなった、後進国の人々が時々私たちに求める「金くれよ」は、これをWIN-WIN関係に持ち込むことが果たして可能であるだろうか。今現在、それができない(故に、物や金を乞われても渡すことはできない)のは、その行為がお金を乞われた側にとって利益となる何事をも生み出すとは到底考えられないからだ。あるいは、投資に見合った利益が回収できる見込みがないと判断している。(一応断っておけば、この考えが全てではない。別の考えで物乞いにお金や食べ物を渡さない人もいるし、全く別の考えを持って渡してみる人もいる。)

お金を渡したとして、その人がそれを元手に商売を始めるなどして自立できるようになる、学校を卒業して職を見つけることができるようになるなどしてその人の生産性が向上し、そうして得た収入の中から自分に支払いがあるなど、将来の自分の何らかの利益になる(金銭的利益として計算できるケース)。あるいは、その投資によって餓死する子どもが減った、失業率が減った、あるいは数字にはできなくとも村の人たちが喜んでくれたなど、彼らの内発的動機づけを満足させる精神的な報酬も利益として数えることができるかもしれない。そしてこのWIN-WIN関係の形成に成功し、今までの援助とは違う形で貧困層の救出に成功したのが、マイクロクレジットと呼ばれる事業だと言える。


では果たして、私たちが直接、そういう関係を想像してゆけるのだろうかと考えてみる。
というのは、私たちはお金持ちと認識されていて、実際に多少余るほどは持っていて、日本という国は援助という形で沢山のお金をブルキナにつぎ込んでいて、その額も日本人にしてみればそんなものはそこまで多いものではないかもしれないけれど、ブルキナべにしてみれば本当に大金をつぎ込んでいる。そして、その大金をつぎ込む一環として私たちがこうしてブルキナに送り込まれている。考えようによっては、ブルキナべたちが私たちに直接お金をせびったとて、そこに何の不思議もない気がする。それをただただ無下に断るのは、間違ってるとまでは言えないのかもしれないけれど無神経だと感じるし、彼らが自立したいと思っていても、いや思って入ればなおさら、ある程度のお金が必要になる。
生活費として支給されている、ブルキナ通貨にしておよそ20万フランCFA。
物乞いに施しをする意味がないと私が思うようになったのは、数年前にオランダに旅行に行ったときのことがきっかけだ。ガイドブックに、「物乞いにお金を渡しても無駄だ。彼らはそのお金でまた麻薬をやり、何も変わらない(オランダでは麻薬は少量なら合法)」と書いてあったからだ。そして実際にアムステルダム駅で物乞いに会った。ガイドブックに従って、断った。

状況は、その時と全く変わらないのだろうか、と時々考える。その時にガイドブックに書いてあった通りのセリフを当てはめて、それを今の自分がやっていることの理由づけにしている。理由づけというよりは、言い訳かもしれない。時々、そう思うようになった。



「100円で救える命があります」

という謳い文句を、何度聞いただろうか。そのセリフを検証してみることは、今まで一度もなかった。
100円、ブルキナ通貨でおよそ500フラン。現在のブルキナ隊が受け取る一月の生活費、およそ20万フラン(ドル建てでもらうので、変動する)。今すぐにでも、出せない金額じゃない。だけど、500フランで救えるものがあるかもしれないという実感は、果たして持てる人がいるだろうか。私の実感と偏見から言えば、このセリフは嘘かあるいはペテンだ。問題を先延ばしにしているだけか、あるいはややこしくしている場合だってある。子どもが多すぎて子どもを捨てる人がいて、そうやって街中に物乞いが溢れるんだという人もいる。

オランダのときには感じなかった絶望感、無力感。ここに居る限り全力で目の前から消えようとしない貧困の映える風景。カオス理論というのは聞いたことがあるけれど、果たして100円ぽっちから変わるものはあるのか。そして、それが果たしていい方向に転がっていくものなのか。

果たして自分がそういう人たちに施しをしたとして、何かが変わるだろうか。
そしてここにきてもう一つの疑問。普通に暮らして、普通に消費活動をすることとは、どう変わるんだろうか。
さて、どうなんだろうか。


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コメント

明けましておめでとう!異国での年明けはどうじゃった?わしは古式に則り、近所のお寺へ除夜の鐘を突きに行ったでえ。ちゃんとおまえとタッタの分も付いたでえ。
今年も頑張れのお。

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