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『好き』と言える無邪気とその罪


例えば、「この人いいな、タイプだな」と思っている女性と二人っきりでカフェに行く約束を取り付ける。金曜日は次の日のことばかりを想像して眠れぬ夜を過ごし、土曜の昼に少し遅れて小走りに来るその人を見つけ、胸を躍らせながらその人が近づいてくるのをずっと見つめている。全然待っていませんよと言いながらカフェまで並んで歩き、カフェに入れば逸る気持ちを少し抑えながら、慎重に会話を進めていく。そうして暫くお喋りをしたところで、誘導するように相手のほうから聞いてくる。

「好きな人はいるの?」

その質問に、目の前の「あなたが好きです」と言うことができたら…でも実際には、「まだそんな話はしてないけれど、日本にいいなと思う女性がいて…」なんて応えている。
そういうときの自分は本当に勇気だとか度胸だとか無いなぁと思う。もしそれを言ってしまったら、それ以降の関係が大きくバランスを崩すことに、不安が拭えない。共通の友達や知り合いがいればいるほど、その不安は大きくなる。




一方でそんな私とは対照的、という人たちもいる。
とある友人(日本人)がブルキナべの同僚から告白された。おかげで、友人は荒れた。私がその友人にタイミング良く電話したのは全くの偶然だったけれど、明らかに沈んだ声が受話器から聞こえてきて正直、困った。朝7時、一カ月ぶりに出勤した配属先の事務所の戸をあけながら、どうしたの、と言って話を聞いた。


それは、色恋沙汰と言うには余りにお粗末な筋書きのように、私には思えた。
日本の価値観でいえばそれは不誠実、あるいは不貞という言葉が当てはまるように思われる。が、一人の男性が二人以上の妻を持つことが今も文化のひとつとして残っているブルキナにおいて、妻と子どもを一人ずつ持つ男性が別の女性に言いよることは、考えてみれば異常なことではないだろう。だから「好きだ」だとか「妻になってくれ」だとか、ためらいなしに口にすることができるのかもしれない。おそらく、女性もネガティブな返事をすることは少ないのだろうと想像する。強制婚だとか一夫多妻制だとか、そういう文化の存在を知ればむしろ、女性が男性のアプローチを断るのは難しい、と言うのが事実なのではないかとさえ思えてくる。
が、その無邪気さに私が苛立ちを覚えるのは、そういう言葉に対して首を縦に振らない女性に対しては仕打ち、めいたことをするからだ。夕方突然、問答無用で電話で呼び出し、そしてそこには彼の友人たちがいる。仏語を学び始めて半年ほどの彼女の前で、今週末の選挙の話など、小難しい政治の話題を繰り広げる。暫く、理解しようと必死になり、黙っている彼女に向って「君はどうして喋らないのか」と怒鳴る。そのやり方が子供じみているようじゃないか、プライドのせいなのか、自分の思い通りにならない女性に対しては簡単にそういう態度に出る。自分は悪くないと言わんばかりに。
彼が私の友人に対して、これまで同僚の中でも丁寧に対応してくれていたという事実。それが、下心ゆえだったとしても、悪いことではないと思う。が、同僚としてこれまでの関係を作った後に、自分勝手にその関係を壊して鬱憤を晴らしているようで、私は気に入らない。ごめん、私はその同僚とそんなに親しくなったわけではないので、疑うことも憎むことも割と簡単にできてしまう。


私は、友人のその悩みを一人で受け止めきることができず、別の友人にも電話した。全く関係のない人間に相談した分、ドライと言うか冷静な言葉が返ってきた。曰く、思わせぶりな言動があったのではないかと。それは確かに、考えられる。同僚にそう受け止められるような言動を図らずもしてしまった可能性は大いにあると思う。考え方、感じ方のずれが、ただでさえ大いにある。現地に来て半年で理解できるようなものじゃない。相手が奥さん子持ちであるということで油断した部分はあったのではないかと想像する。それがなかったとしても、勘違いしやすい男って人種だ。
が、それでも許せないと思うのはやはり、振られた後の彼の振る舞いだ。同僚だからこそ、これからの活動も大事に思って友人はこの関係を修復したいと思っている。が、もしかしたら最終的に、上司らに相談して無理やり解決を図るという方向に流れるのかもしれない。そこまで突っ込んだことに関しては、私たちには関係の無い、口を出す資格のないことかもしれないが。

せめて彼に、告白する勇気までしか無かったら、と思ってみる。私から見れば大胆にも、そして子供じみた態度をとることができてしまうほどの図太さを持つ彼だ。



さて果たして、こういう世界の話をしていればよく話題になる異文化理解、相手のことを理解するための異文化理解はここでも必要だろうか。考え方の違いがあると言う話はしたけれど、ブルキナに来てブルキナべと一緒に暮らし、ともに仕事をしていくためには、相手を理解することは確かに大事だろう。
が、それが日本に生まれ、日本に育ったことを否定するほどになるのであれば、ごめんこうむるね、と言ったところ。それは洗脳と言うものになってきて、理解の範疇を超える。異文化と言う相対性を失い、その理解できない対象をそれでも理解しようと努める中で起きる摩擦にこそあるはずの価値をぞんざいに扱う。
大げさなことを書いている、と思うかもしれない。が、こう反論したくなるようなレベルの「理解」を求める人たちだっている。そして今回のことに関係しているからこそ、ここにまとめて書く。



そして私はここで、悪意に依る偏見に満ちた考えを披露する。
少し前から思っていたが、どうもこちらの人々は色々な場面で、子どもっぽいと思わせる振る舞いが目立つように思う。他人の失敗や不幸を簡単に笑うこと、音楽も特にそのビデオでは三流コメディ以下のものが繰り広げられて、それを見て無邪気に笑う。あの、カラオケのときに大きなテレビに映る古い映像を思い起こさせる。加えて音楽自体もしばしば、単調だと思う。まだ、隣国コートジボワールの音楽はそういう意味で子供じみてないと思う。アメリカっぽいポップスというジャンルがあるくらいのものだし。こちらの人たちが好むドラマや映画を見ても、話の筋が単純で人物描写も平坦で、特にビジュアル的なアピールをよく好む。私とは趣味が合わないが、アクションものなんか、大好きみたいだ。そして、今回の同僚の彼の振る舞い。私の同僚にもすこぶる子どもっぽい、本当に大人同士が繰り広げているのかと疑いたくなるような会話、ジョークをいつも飛ばす人がいる。そしていつでも、男だと思えば女は要らないか、女だと思えば男を作れと言っては笑っている人々だ。げんなりする。毎回毎回ご飯を食べに行くたびに、「日本の彼女は?(面倒くさいので日本にいるということにしている。が、それでも以下の文言が続く)ブルキナでも彼女作れば?それで日本に連れて帰って。それか、こっちなら二人ともと結婚できるよ。可愛い子、紹介しようか?」


さて、今回本題にしたことは、その後の経過など、もう何も書かないだろう。途中にも書いたけれど、この件ははっきり言って私にとっては他人事であり、余計な口出しであるわけだ。が、色々といい機会だと思ったので書いた。ただここで、私も異文化理解という点では落第生だと思う。ブルキナに居て、日本で暮らすよりも刺激は少ない。が、ストレスは本当に多い。理解できること、できないこと、見ない振りすること、笑って済ませること…誤魔化し方はいろいろだ。そんな中で思うのは、異文化理解なんかできなくったって、大丈夫、生きて行ける。むしろ理解しようと努めることに落とし穴があることだって珍しくない。そう思い込ませる。
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コメント

ブルキナベには通じんと思うけど、

無邪気?純粋?素直?正直?感情的?本能的?
邪気?不純?偏屈?嘘つき?理性的?意識的?

人間はむずかしいのう。

フェイレイの歌のフレーズでこんなのがあったで。
待つだけでは救われない、許すだけでは満たされない。
まあ、お前が後悔せんにゃあえーわいや。

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