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『「人間嫌い」のルール』



最近巨匠だとか、そこまで行かなくてもプロの書いた文章をたくさん読んでいると、自分の書いた文章はどうしようもなくつまらないものに思えてしまってしょうがない。私は素人だし考えなしに思いついたさきから書いてるだけだからそれで当たり前なのだが、それでも悔しかったりする。




一度勘違いされたことに関して、今更そういうつもりじゃなかっただとか、訂正するつもりはない。だけど、もしもそのために『協調性がある』だとか評価されるのであれば、それはすごく癪だ。

最近、自分の思ったままを口にするのは難しい。人と会話をするとき、人数が増えれば増えるほどある種の圧力を感じる。自分の言いたいことよりも、その場の雰囲気に求められている言葉を発し続けなければいけないと感じさせる圧力。 
気のせいだろうか、私が小学生のときにはそういうものを感じてなかった。中学高校あたりから、思ったことをそのまま口にすると
「空気の読めないやつ…」
ということになり出した(気がする)。年齢のせい、大人になったということだとは思っているが、実はもう一つ、原因の可能性に目星をつけている。
ネット社会。私はネット社会の反映こそが言いたいことを言えない現実社会をも作り出したのではないかと、ひそかに疑っている。

ネット社会の象徴的なものと言えば、記号化された人格とそう言った個人による表現。カキコミ板だったり、私がこうして書いているブログもその一つだと思う。ネットが絡んだ事件が頻発するようになり、そのときに事件の背景としてワイドショーなどで匿名性だとか情報化された個人というものがキーワードとして解説される。そういう乱れたネットの世界をより居心地良くするためにネチケットなどのネット上でのマナーが作られて呼び掛けられたり、場合によっては(自主)規制がかかったりもする。自主規制というのは作家などのプロの物書きには昔からあった悩みなのかもしれないが、インターネットを通してプロ以外の、一般の人々が不特定多数に向けて表現を始め、それと同時に一般の人々が不特定多数を相手に書くときのことを意識した文章を書くようになったのではないだろうか。そして多くの人々(とりわけ若い世代)がその影響で、現実社会でも当たり障りのないことしかしない、言わない、ストレスを最小限に抑えた「空気を読む」人間関係を作り出しているのだと、私は考えている。
予定調和な会話しかしない、毎回同じ会話を繰り返す、偶然の出会いから生まれるはずの、どんなふうに展開されるか未知数という対話のダイナミクスがない。
例えばモノクロフィルムを見ているような、あの会話運びや言葉遣い、自由な会話から生まれてくる沢山の表情がうらやましいと、私は思う。ニコニコしていることしか知らない現代人よ。もっといろんな感情を表現していてほしい。

少なくとも、言いたいことを言う、という原則は自分に押し通したい。
期待される言葉を発していい人だと誤解されるよりも、思ったままを口にして嫌な人だとか腹が立つ人だとか、正直に自分を受け入れてもらえるほうが自分は好きだ。



最近、ブルキナべも「婉曲表現が多いよね、はっきり言ってくれたらいいのに(笑)」って、同期隊員と話したりした。私はあんまり感じてないんだけれど(気付いてないだけ??)。
なんにせよ人を気遣うのはいいけれど、そのために自分がストレスを感じるのなら逆効果だと思う。うまく相手に伝わらず、もどかしい思いをしたり。その原因が言葉が見つからないというところにあるのではなく、どう表現すれば相手が傷つかないかということばかりを気にしての結果なら、アホらしい。


例えば物をあげるときに、自分の気持ちをはっきりと言葉にせずに阿吽の呼吸みたいなものに頼って、あげたものをどう使うかを勝手に期待しちゃいけないと思う。言葉にせずに勝手に「あれは、こういうふうに(その人自身が)使ってくれるだろう」とか期待して、もし私が期待された使い方をしなかったり、それを別の人に渡したときに裏切られたと思うのは、もううんざりしてしょうがない。そう思うなら初めから私が人に渡したりしないように「これはあなたが自分で使ってね」と念を押しておかなければだめだと思う。勝手に自分の中で価値判断して期待して、それとずれてるからと文句を言われても、正直な話、迷惑。
(ちなみに、使い方を指定されて渡されるのもある程度迷惑だったりする。)


それが自分の価値観であってみんなそれぞれの価値観を持っているはずだと思うから、みんなもナチュラルに適当にやってればいいと私は思っているけれど、なかなかどうして、全体の雰囲気だとか相手の気持ちだとかばかりを気にしてばかりいる人が多いよなぁと思う。本音とホンネの話もそうだったけれど、『アイテノキモチ』というのもある程度、定型があるものだと感じて窮屈な思いをすることが多い。

多くの人が、喜んで承認するであろうことは、自分がおよそ他人に親切を示さなくても済むのなら、他人も自分に親切にしてくれなくてもよい、ということである。
(『人権の形而上学の基礎づけ』中島道義訳)

といったカントの言葉が好きだ。でもオルテガも好きだ。ドミトリーにはカントもオルテガはないけれど。。。


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