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都会で考えるべき生物多様性


そんなことを言う必要はないと思う。
昨今よく取り上げられる地球規模の環境問題の一つに、“生物多様性”が挙げられる。それを“JICA’s World”July 2010 No.22にて特集を組んで取り上げてあるのだが、そこで養老孟司が寄せている文章にこうある。
「生物多様性を本当に理解するためには、虫一匹いないような無機質な会議室で議論するのではなく、まずは自然の中に身を置くことが必要だと思いませんか」
と、諭すように。
養老氏でなくても、こう書く人は多いだろう。が、この雑誌を読んだ私の理解では、生物多様性は自然ではなくまず最初に、虫一匹いない会議室で議論するべきである、という結論になる。

私の現在の、たった2ヶ月だがの自然に囲まれたブルキナ生活から言わせてもらえれば、この中で生物多様性を実感しようというのは無理な相談だ。動物園に行くか、図鑑を広げてみたほうがよほど理解を助けてくれる。そこには似たり寄ったりの動植物たちがどのような些細な違いで分類する方法、それからそれぞれにちがった名前が与えられていること、つまり「別の種である」ことが載っている。そもそも、“種”という考え方自体がそこから与えられる。その知識がなければ、いくら自然の中に身を置いたとして、そこからせいぜい2つの目を使って見える範囲から生物多様性が描けるほどの想像力というのはまずないだろうと、私の乏しい想像力は訴える。それに例えば、蝶を何百匹見たところで「蝶だ」というレベルにしか認知しない可能性は大いにある。見た目が大きく違えばまだ分かりやすいが、見た目ではないところで分類するとすればやはり多様性という発想には結びつかない。自然の中で生きることでは、生物多様性は見えてこない。
私の経験のみではなく、まさにこの雑誌に載っている途上国の人々とJICAのやり取りを見れば、このことは理解できるのではないだろうか。まず自然の中に身を置くことで、生物多様性は実感されない。

そもそも、生物多様性という言葉が虫一匹いない会議室にて作られた言葉だろうと思われる。ホットスポット(多様な生物が生息しかつその多様性が脅かされている場所)の多くはその大部分が後進国に集中しているとある。これはまた、私の乏しい想像力によるものであるが、先進国においては森林伐採などの環境破壊が進み、すでに生物多様性が失われてしまったがためにホットスポットが少ないのではないだろうか。あるいは、すでに人口集中がなされ、人間の住む空間と動植物が生活する空間がかなりの程度分離されている、というのも考えられる。ホットスポットを示した地図を見た限り、違う答えが浮かんでくる気もするが。
が、そうだとしてもやはり、生物の種類が減っているという危機感、全く人間だけの空間という危機感がなければ“生物多様性”という発想には至らないだろう。
この雑誌を読んだ限りだが、他にも生物多様性という言葉を作り出すにいたった要因になったものはいくつかあると思う。
「医薬品の40%は生物由来の原料」
果たして会議室の人間と自然の中に身を置き生きる人間と、医薬品を多く使用するのはどちらであろうか。これは、おおよそ偏見を持って答えたとしても答えは間違ってないだろう。そこでも、生物多様性に危機感を抱くべきは。
そしてこの問題に限らずグローバル・イシューに気付くことができるのは、その名の通りグローバルな視点があってこそである。地球レベルで世界がどう回っているのかを意識しなければ、はっきりいって統計だとか数字に置き換えてみることで初めてインパクトが出てくるものであって、あるいは出しているもので、何十年とか何百年かけて(生物の絶滅種が急激に増えだしたのはここ200年程という話)起こっている問題をローカルの個人が認識できるわけはないし、ローカルに籠っている限りその解決策まで発想しろというのも無理だ。どれだけローカルを見つめたってしょうがない。生物多様性なんてものは、会議室のなかをぐるぐる回っている問題なのだから。

なにしろ考えるときぐらいは、エアコンの効いた涼しい会議室で、と願う今日この頃。
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