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Craindre,Crainte,Craintif,Craintivement そしてDefaut.


自分の言葉が伝わらない感覚というのが、ものすごく恐い。

自分からこうして呼び掛けているはずなのに、例えば壁に反射して帰ってくるはずのこだまが、自分の耳に届かない。自分から投げたボールが、目の前を自在に動く光景だけ私に見せ、全く自分の手元に返ってくることがない。そういう気分にさせられる。そうして多分私は、親を探している仔馬のようにさびしげな顔をして突っ立ってるんだろう。ひどく滑稽な光景だ。


局長に見せようと仏語で用意しているレポートは、一体何が悪いのか、チェックしてもらおうと見せたカウンターパートのAには全く伝わらない。文法的な間違いや適切な単語とかそういうレベルではなくて、自分が伝えたくて、考えて綴ってきたはずの言葉が、右から順番に、悉く別の言葉に置き換えられていく。一字一句、私のレポートではなくなっていく。少しずつ消されていく、自分の言葉。今でも、思い出すのは怖い。逃げるように飛び出してきて、家に戻ってから、少し泣いた。今までもずっと私の言葉であったものがこれで何不自由なかったものがここにきて伝わらないのはなぜ??自分が、半分は自分に酔って書いているという事実は否定しない。だけれど、あんなふうに自分の言葉を端から全部否定し、置き換えられてしまうと、もしかすると、今まで23年間生きてきて、今まで綴った日本語、つたない英語、ドイツ語、フランス語の言葉達に、価値はこれっぽちもなかったのでは…自分の中でしか循環してなかった言葉だったの?そういう大げさな感覚にまで襲われた。
私にとって、自分の言葉が置き換えられていくというのは、そういう感覚に襲われていくことだ。が、結局Aに聞いてみても、自分の表現の何が悪いのかいまいちはっきりしない。このまま、使いこなせないままフランス語ができないままでは居られない。だけれど、今こういう形でその問題に立ち向かっていくことは、私をバラバラに刻んでゆく。


最初は、自分はそのレポートの修正がなかなか進まないことにイライラしていると思っていた。「疲れていたから」と、不機嫌な顔をして分らないといった一昨日のことに対して言い訳した。彼のその丁寧さは、確かに分る。そして私にはそういう性格の人は合わないのかも、と一瞬思った。
だけど多分、そうじゃなかった。私の言いたいこと、書きたいこと、表現したいことが無視されているようでイライラしていた。私の表現したいことが、Aに直してもらうたびにそのニュアンスがぼろぼろと崩れ落ちていくような気になる。これは私のレポートであって、Aのレポートではないと…。
私はこれ以上耐えられなくなった場合は最悪、直してもらうことなしに、間違った表現だらけでのフランス語のレポートを局長に提出してもいいと思う。これは半分間違っている論理だとは自分でも思うけれど、私は外国人で、本格的にフランス語を勉強し始めてからたった4ヶ月なんだから、他の人が読んだときに、多少間違ってたり、「?」と思うような言い回しがあるぐらいのほうがちょうどいいというか、可愛げがあるというものだ。むしろ完璧にできているほうが嫌だ。
例えばA以外の同僚のように、笑いながら「そうじゃないよ、こうだよ」と教えてくれるほうがいい。なんだか、小学生に戻ったようなミスを指摘されるから、不思議なコミカルな気分になる。けど、彼らが私の表現を受け入れてくれると感じて居られるから、私のニュアンスを拾ってくれるから、私は自分のフランス語を直していくことができる。が、Aは…ニュアンス(微妙)だと思うとはっきりさせたがる。そこで私の頭と食い違う。


私は人に見せるようなものを書くとき、傲慢を持って書いている。自分の作った表現というパンにたっぷり塗ったイチゴジャムのようにあふれるほど乗っかっている薄っぺらいプライドだ。だから、人に訂正されるいうことが耐えられない。自分の他の何を否定されるよりも、自分の書いた文章をいじられるほうが耐えられないのかもしれない。直されるのではなくて、いじられる。そういう感覚だった。それは、自分の書いた言葉、ひねり出した感情、考え、それ以上に自分自身を完全否定されているような。
前にも、似たようなことがあった。あのときよりも今回のほうがよっぽど、小さな事件だけれど。それでも、この痛みは同じだと思う。実際、痛む。
平成20年の末は、どうしてた?上手く形にできない自分の考え、言葉をまとめられないままバラバラのまま、それをすべて否定されて途方に暮れていた。もう何も考えたくなくなって、あの人の顔を見るのも嫌で、怖くて、実家に帰って過ごした。楽しんでいたことにだけ集中して、いいように言えばそうやって自分を保った。そして2月の中旬にも、弱い自分と向き合うことがあって、どうしようもなく落ち込んで、だけどそこから救い出してくれる存在もそこに一緒にいたから、もう一度自分と一緒に居ることができたのだと思う。あのときには、否定がすべてじゃなかった。今になってみれば、そう思う。
今は結局、逃げ込む先は日本語しかない。自分が今の自分をほぼ不自由なく精一杯表現できるフィールド。ここで、気が済むまで言葉を重ねているしかない。自分で自分に慰めてもらうしかできないでいる。悲しいけれど、でも町に出たくない。誰とも会いたくない。日本語が通じないなら。もしここに日本語が通じる誰かが現れたら、愚痴るか甘えるかはさておき、喋って喋って喋りまくるんじゃないだろうか。関係ないことしか喋らないかもしれない。もっと別の現実逃避をしてるかもしれない。
一昨日・昨日と、私は自分の言葉に対する否定に耐えていたつもりだった。途中で、どうしようもなく耐えられなくなった。Aに涙を見せたりはしない。だけど、自分のイライラはどうしようもなく隠せなかった。彼が私の感情のどこまでをキャッチしたか…フランス語では言葉にできない分、感情を持ってぶつかってしまった一昨日・昨日。力ずくで体当たりしてみたって変わるものじゃない。だけど、何も言わずに自分が否定されていくのを黙ってみては居られない。とにかく自分が否定されるのを見ていられなくて、自分の正当性を小さなフランス語で示して、やめさせて、そして逃げ出してきた。もう見せたくはない。自分を否定されるためになんか。
またこうして怯えている自分。自分の言葉を離したくはない。駄々っ子が手を振り回すように、これが自分のはずだと言ってただひたすら言葉を重ねている。


暗い暗い日曜日。家に誰も寄せ付けなくなる、台風のように風を伴って強く降り続ける雨の音をありがたがって聞きながら過ごしている。


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コメント

何を焦っちょるの?イラつく必要はないで。人にあたる必要も。

美しく表現が多彩で豊富な日本語が、他の外国語ですべて表現できると思うこと自体が間違いよ。例えばの、フランス語やモレ語で「雨」という表現が何通りあるか尋ねてみいの。日本語みたいに何十もあるか?

第一、お前の日本語は物書きの日本語じゃけん、ストレートにレポートにするのも間違いじゃのう。
レポートはレポートの書き方があるんじゃわいや。(大学で習うたろう?)まず、物書き言葉をレポート言葉に「変換」して、それからフランス言葉に訳したら大丈夫じゃないんかね。(手間じゃけど。)

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