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心が逃げる


「次平は明日、江戸を発って東海道を上るそうだ」

「は、では品川あたりで押さえましょうか」

「いやぁ一人旅だ。島田宿まで行かしてやれ」

「は?…あぁなるほど、女房娘に会わせてやろうと言うことで」

「言うな! 言えば心が逃げちまう…」

                              鬼平犯科帳「盗賊二筋道」より



再放送の鬼平犯科帳が、ものすごく嬉しい。特にこの回、この台詞に揺れてしまう。
言ってしまえば会えなくなってしまう、会ったときの感動がなくなってしまうんだ。


最近自分が考えていることと重なるから、余計思い入れが強くなるのかもしれない。言葉にしてしまうとダメになってしまうものが、ある。その価値が減るとか、つまらないものになってしまうという感覚。

少し前に宇治拾遺物語を読んだときにも考えた。あれとは若干違うけれども、本当に大切なことは言葉にしちゃいけない、という哲学は共通しているように思う。

「SAPIO」と言う雑誌に深川峻太郎氏が「日本人のホコロビ」という連載をしているけど、最新号(2009年11月25日号)にて『愛の賞味期限』というタイトルで、同じ内容の話をしている。最も、深川氏の考察はもっと幅広くて深い。



最近ものすごく女々しいと思っていたロックやレゲエも多分、同様。
「ママありがとう」
見たいな事を恥ずかしげもなく歌ってるって、理解できない。そう思うのも多分、言葉にしてしまうと腐って陳腐になってしまうからだと思う。自分が持ってる思いが、誰でも持ってる言葉にしてしまうことで薄れてしまう。あるいは汚れてしまう。
だから言葉にはせず、背中で語るってぐらいでいたいね。

よく、「日本語だと上手く表現できない(あるいは照れくさくて言えない)言葉があって(で、英語なんかにすると言える、とかね。)」ってあるけど、あれも本当は日本人としてどこかで言葉にすることへの虚しさをどこかで感じてるんじゃないかな。でも、どうしても言葉で表現したくなってしまう、他のカタチで表現(あるいは昇華)できない、自分の中で思いを温めていられない、言葉に依存してしまった可哀想な現象なのかも知れない。
そこは私も言葉とネットというツールを使って表現しようと試みている者。逆に氾濫する言葉に呑み込まれてしまわないように。


それは、言葉として表現できるレベルに堕ちてしまうということなんだろうか…
どうしてそういう感覚が出来上がったのかは知らないけれど、私も思う、平気な顔して「愛」とか「幸せ」とか「平和」とか言ってる人の気が知れないという感覚は、これのためだった!言った瞬間に、ものすごく空虚なものになってしまう感覚。

だってそれは、「言えば心が逃げてしまう」



昔、テレビで見たさだまさしの苦悩。
「感動」という言葉を使わず、感動を伝えろと。私もこれを目指そう。




…中村吉右衛門のようには、いかななくてもね。
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