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自然の循環と切り離された世界にて生活する者の感覚


先日、広島市内のマンションに住まわれている方の所にお邪魔した。
そのお宅では猫のほか、水槽二つに数種類の魚(グッピーやピラニアみたいなの)、それからベランダなどで観葉植物も多く育てている家。

使っていない水槽がまだ二つもあって、「これでも人にあげたりして処分したんだけれど」と言うことだそうですが。


お昼過ぎ、コーヒーを飲みながら話していると、その部屋で飼っていた亀を処分したときの話になった。
すっぽんもどきという亀が死んだときに、その方はゴミ袋の中に生ごみなんかと一緒に詰めて、燃えるごみの日に出してしまったんだそう!!


にわかには信じられないし、「もっとちゃんと処分する方法があったろうに…」と思うところだけれども、その人は続けてこうつぶやいた。

「私も実家に住んでいたときには庭に埋めていたけれど…こんな風に地面もない、マッチ箱の中だけで生活しているとね。」


それを聞いて、納得がいった。というか、文句は言えなくなった。
確かに都会の真ん中で生活していると言うことは、スーパーなんかでお金を出せば何でも買え、いらないものはごみとして処分する。
買う以前と捨てた後のことは何一つ意識することなしの世界が成立している。
生きているものも含めて、全てはマッチ箱の中を通り過ぎてゆくだけの存在。箱の外の世界はほとんど意識(想像)することがない。

これが現代の普通の感覚かも知れない。全ての物質がその形を変えながら循環しているのなんて、どこか遠い世界の出来事。自分たちの世界ではただひたすら必要なものと不必要なものが出てくるのみ。


ちなみにその方は、観葉植物が腐ったときには県境にまで捨てに行った、というエピソードも語ってくれた。人目を気にしながら、誰も見ていないのを確認して放ったという。

思えば私も、一人暮らしを止めるときに、ベランダに置いていた鉢やらの処分に困り、土は道端に捨てたことがある。



ひとつ強調しておくと、亀をごみの日に出してしまった人は、決して亀に愛情を感じていなかったわけではない。




飽くあくまでこれは生き物をどう処分するべきかの話ではない。
人間が快適に生活するための空間と、循環してゆくべきものたちの間の葛藤である。
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