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「ラジオの恋」


映画を一本、見てきた。ずっと見たかった、「ラジオの恋」。
楽しみにしすぎていた所為か、まだ何のストーリー展開もしてないのに、
映画が始まった途端に号泣しだす私。

何だったんだろうな、横川シネマのタイムスリップをしたかのようなレトロな空間にやられたのか、
自分が今暮らしている街が映画になっている感動か、
楽しみにしていた映画が始まったと言うだけでえらい感動してしまったのか。
それとも、仕事仕事で人には言えずに溜め込んだ気持ちをここぞとばかりに発散しようとしたのか。
まぁとにかく、映画の最初から最後まで、時々笑いながらも、
ずっと涙を流しながらスクリーンを眺めていた。

最近写真を撮るようになったからか、あのスクリーンが、
ファインダーから景色を見ているような気分になった。
自分の目で、ファインダーをのぞいて世界を切り取っているかのような錯覚。

そしてずっと話題になっていたけれど、広島の街をさりげなく、
特に街中のシーンは、自分がいつも見ているような風景も多く、
それが自分と同じ目線からと言うか、等身大の映像にもなっていて、それでいて自分にはできないくらい洗練された切り取り方をしていて。
私は一番最初のシーンを見たときから、あぁあのブロックを敷き詰めた道を撮っていいのだと、
それも絵になるものだと勇気をもらったし、
そういった何気ない風景にももっと魅力が隠されていると知らされたと思う。


話自体は、私も劇中の横山さんのように、最初はファンタジーだと思った。
そりゃ、聞いている人は居る。読んでいる人は居る。
だけどそれが、影響力と呼べるほどの大きなパワーかと言われると、
テレビやネットに押されて、特に今どきの人が聞いたり、見たりしてくれているなんてあんまり思えない。
それに、もっと言えば、「おれにそんな責任ないよ」ってことだ。
自分の発言、書いた一言で誰かが動く、何かしらアクションを起こす。
そんな恐ろしいことなんて出来ないという感覚。
自分がそうしたければいい、私に聞かないでくれ、と思う。
私はそうしている。何か欲しい時、人の意見はほとんど聞かない。
自分で何が欲しい、何をすると決める。
だからあなたも、私の発する何かを待たずに、自分で決めて自分でアクションを起こして、
自分の中でその一連を完結させて欲しい。
私の仲介を求めないで欲しい。
そんな思い。
だからファンタジーなんだ。
自分の一言で何かが動き出す。それも、いい方向に。
なんてことを想像して誰かの背中を押すなんて、どんだけ鈍感だったらできるんだろう?
自分が誰かを動かすことが本当にいいことかどうか?
そう思って躊躇ってしまう。斜に構えて向かい合おうとしない。
責任を背負うのは嫌。

世の中、いいことばかりしか起こらないならファンタジーは要らない。
だから、なにかをかえようと思ったら、ファンタジーを信じるしかないのかな。。。
自分に必要なのは、そのファンタジーをつくることなのかもしれない。
と言うのが一つ。

もう一つ、メディアの仕事をすると言うことは、まさに「片思い」をすることなのかもしれない。
これもファンタジーだなぁ。私には出来ていない。

頭で分かるだけでこの二つが解決できれば、こんなに楽なことはないのだけれど。
夢を見るリスクをとれるかどうか、が私がこれからも今の仕事をする中で、
前を向いてゆけるかどうか、なのかも知れない。



天才横山さん。上映後、挨拶に来てくださいました。
いつも楽しませて頂いております。

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カメラを持たない私は映画のことを考えた。


最近、見たい映画。「ラジオの恋」。
最近、(DVD借りてパソコンで)見た映画。「ブラックレイン」。

「ラジオの恋」の紹介の時、アナウンサーが言っていたのだ。
地元の人間でないものがその土地を撮る時の、
その場所でのセオリーにとらわれない、新しい魅力を映し出すマジックを。
だから「ラジオの恋」を見れば私も新しい広島が発見できると思うし、
新しい魅力の発見の仕方とか、そもそもの常識や既存のセオリーにとらわれない自由さをも発見することが出来るはず、と信じて止まない。

ブラックレインも見てみたけれど、そもそも私は大阪をあまり知らなかった。
ロスト・イン・トランスレーションは、まだ東京(渋谷)をテレビで見る機会も多い分、
「あぁ、外国人から見た東京はこんなところなのか」って納得し易かった。
アクションじゃかったのも、街のビジュアルに集中し易かった理由かもしれない。


私は私の目でこの世界を見つめればいいし、
その為に最低限の技術は必要かもしれない。
そして、自分が見た世界を切り取って、表現する為の道具に留まらず、
自分の体の一部のように機能してくれるのがカメラだと言うことに気付いた。
ないとやっぱり不安だし、不満だし、自分ではないような気分だ。


ちょっと前に金を求めてこの場で掘り続けることを決意したはずの自分が、
また手を止めて、立ち尽くしてしまいそうになってしまっていること。
懐かしくなって少し前にツタヤで借りて見たバック・トゥー・ザ・ヒューチャーは、
やっとそのメッセージを理解して、本当に楽しんでみることが出来た。
未来は白紙。
未来へと続くレールはある。そこに乗り続けているのもいい。
でも、そのレールから外れて、自分でつかみ取る未来もある。
望んだ形の未来が待っているかは分からないけれど、自分で選ぶことが出来る。

この映画に不満な点が残るのは、正義の形が一方的すぎること。
いい未来像というのが、いい家に住んでいて、綺麗な格好できて、みたいなところ。
まぁ経済がガンガン成長していたときの映画なんだろうから、しょうがないか。
それと、ビフ(ドラえもんでいう、ジャイアンのポジションかな?)が一方的に悪役で、主人公にとってのいい未来像の中では彼は低所得者で人にこび売って生きるような人間になっていること。
彼の生き方、性格が絶対の悪ではないはずだけれど、いじめっ子なんて将来、こんな立場になってしまえばいいんだ、見たいな描かれ方で、哀れ。彼にだって正義はあるし、幸せになる権利もあるのだけれど。。。映画の世界観とはいえ、かわいそうと思う。そこら辺が、ドラえもんとは違うよなぁ。


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