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洗濯物たち。


AKB48のチームK6 RESET公演のCDを買って、聴いている。
暫く、外で音楽を聴くのに飽きて、イヤホンを使っていなかったけれど、
なんだか久しぶりに携帯に音楽を入れて、AKBを聴きながら街を歩いてみる。
新鮮な気分でパワフルな曲も多いし、これまでとも気分が変わって楽しい。

このCDに収録されている、「洗濯物たち」という曲が、今のお気に入り。
お気に入りっていうとちょっと違うかな?自分を重ねあわせている。

今年も残すところあと一日。
そして、つい最近まで、元気に楽しく毎日過ごしていたと思っていたのに、
気がつけばしわくちゃの泥だらけになっている自分がいた。

私も年末年始を使って、一週間どころか何ヶ月分も溜めてしまっているものを、
洗濯してしわも伸ばして、
まっさらでからっとして上を向いた自分を取り戻そう。


ということで明日から数日、旅に出ます。
自分を洗濯して、新しい自分をやり直す!
2013年、もっと自分の未来を尊重した一年にしよう!
みなさんも、よいお年を。
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世界は動いている?それとも動かしている?


ブルキナを離れる直前に、妹から荷物が届いていた。
使っていない鉛筆やボールペンとかの文房具が、とにかくたくさんあった。

それを、
「田舎の、文房具が買えなくて勉強できない子どもたちにやって欲しい。どの子どもにやるかは、全部任せるから」
と同僚に頼んでブルキナを離れて、はや半年。

すっかり忘れた頃に、その同僚からメールが届いた。
ゾルゴの隣のズングというコミューンの、ガンダオゴという村の小学校の子どもたちに文房具を配ったらしい。
写真もつけてくれた。

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一枚目が学校の先生と5人の子どもたち、3枚目は同僚と子どもたち。
この子たちはみんな孤児で両親が既に無く、学費や文房具を工面する能力が無い。
そのため、先生が彼らの面倒を見ているそうだ。

給料が決していいとは言えないブルキナの教師が、村で学校に行くことが出来ない子どもたちをこんな形で保護して勉強させているとは知らなかった。すごく嬉しいし、彼らの教師としての誇りを感じる一方で、彼らの生活だってただでさえ一筋縄でいかない中、自分の生活費や遊ぶお金を削って子どもたちの為に使っていると思うと、どこか申し訳なさを感じる。


久しぶりに紙の新聞を読んでみると、ペラペラとめくるだけで、自分で選んでいた時にはたどり着かなかった、でもすごく興味深い記事がたくさん載っていて、面白い。
こんなに新聞が面白いとは初めて認識した。

今日の朝日新聞の9面。
『「クリスマスは社会と向き合おう」ローマ法王、経済誌に異例の寄稿』


ローマ法王なんて今までどんな人かも知らなかったけれど、
私はキリスト教のことは知らないけれど、ローマ法王もキリスト教だけでなく、
世界の平等や平和を一心に祈っておられることが今日、分かった。
昨日は天皇誕生日だった。陛下も79歳。
日本から世界中の人々の安定を願い続ける存在が居ると言うのはとても誇らしいことで、
その存在がここらで途切れずに、ずっと永遠に続いて欲しい。

話が逸れたけれど、パーティで浮かれながらも、法王の仰る通りにみんな、ちょっと考えてみよう。

タクシードライバーとイージーライダー。


「タクシードライバー」と「イージーライダー」を見た。

ずっと見たくて、なかなか見れなかった二つの映画。
タクシードライバーは、とにかく音楽がいい。あのテーマ曲は、禁じられた遊びを超えているかもしれない。
イージーライダーは、なんだかすごく人気があるし、タイトルがタイトルなので見てみたかった。


二つとも、フィルムの感じがすごくよかった。
フィルムというだけですごくいい。

ということを、自分でフィルムで写真を撮るようになって、実感した。
デジタルも、デジタルの画質はフィルムを超えたと言われているみたいだけれど、
描写力はあっても、それで確実に犠牲にしているものがあると思う。
雰囲気とかを全く切り取れないから、見た目美しいだけ、細かいだけの写真になっていると思う。
フィルムはその点、全然違う。フィルムが醸し出すあの、ちょっとざらつきのある画面と独特の色味は、映画らしいと言うかとにかくフィルムらしいと言うのか、CGやデジタルのようにわざとらしくない世界を自然と演出できていて、それだけで懐かしさが漂う。


そして、内容について。
どちらの映画も、ベトナム戦争をきっかけに二つに割れてしまったアメリカ社会を反映していて、今ではマイノリティとして生き残っているにすぎないが、当時は時代の一翼を担った運動が敗れ去って行く様をまざまざと描いてあり、今まで映画を、ただ外部の者としてみて来たのとは違い、今の自分の思想や自分を取り巻く環境にまでこの映画のテーマが繋がっているのが感じられた。

タクシードライバーは、あのロバート・デ・ニーロの役のステイタスや反社会性というか、周りにうまくとけ込めない部分が、
ベトナム戦争で破れたアメリカ、派遣国となった故に抱えることになった正義への葛藤、ベトナム戦争でまっぷたつに分かれたアメリカを象徴しているようで、すごく面白かった。
ただ、結末で彼が英雄視される場面も意味が分からないんだな。私にしてみれば、「自分のやったことをほめて欲しい!」というアメリカの自己愛肯定願望な気がするけれど、どうだろう。
同じテーマに踏み込んでおいて、描く対象が違うと、イージーライダーと見た目かけ離れた作品になっているように思うけれど、このブルースが終始リフレインされる雰囲気は好きだ。

それと、イージーライダー。
これはただバイクが好きな映画なのかと思っていた。全然違った。
これも、ベトナム戦争をきっかけにアメリカに生まれた反体制的な活動を取り扱ったもので、
自由の意味を問い直す映画であり、結末としてはこの時期の反体制運動=自由が体制に敗北するというもので、すごく意味深だ。

実際に、今の世界では反体制的であることは完全に敗北を喫し、この反体制運動から生まれた様々な運動や思想は、本編でもウーマンリブなどに触れているけれど、今は市場にて選び取ることができるスタイルの一つにすぎず、完全なマイノリティー。

主人公のキャプテン・アメリカが、当時体制や時代への犯行として生まれた多くの思想や運動に、穏やかな視線を向け、肯定していくシーンは気持ちがいいが、それが体制側にとっては唾棄すべき対象、攻撃対象になりうるものであること、そして結末としていとも簡単に体制側に敗れ去るべきものとして描かれていて、新しい価値観の脆弱さには切なくなる。

自由の置かれた立場は、この時から今まであまり変化が無いのかもしれないな、と言うのが、私がこの映画を見た時の感想。

壁を壊したい。


今日、気の合いそうな人と一緒に、ちょっとだけお茶をしてちょっとだけご飯を食べた。
協力隊の説明会に来て、私の話を聞いてくれた人で、
今回が2回目の挑戦だったらしいのだけれど、今回も落ちてしまったらしく、
私は説明会の時に「応募のことでも何でも、相談に乗るし協力する!」って
言ったくせに何も出来なかったことが悔やまれてならない。
仕事があったとはいえ、もっと形になるように応援できていればよかったのに、と思う。

ところでその子が言っていたのだけれど、
やっぱり広島の人は排外的なのかもしれない。
周りの人との壁を高めに設定して、周囲から「仲良くしよう」「友達になろう」と来た人たちのハードルを上げているのかもしれない。
嫉妬心も強かったりするのかな?

その子が、それが原因であんまり広島を好きにならずに地元に戻るのなら、
すごく悲しいし勿体ないことだなと思う。


私もその壁をたぶん、自分で高く作っていて、
10代後半からほぼこれまでは、その壁をどうにか取り壊そうともがいていた時期だと思う。
そしてなかなかそれがうまく行かない。行っていない。
果たしてこの挑戦が、あと1、2年続くのか、それとも一生続くのか。


事情が分からない訳ではないけれど、やっぱり知らない人に話しかけるとした時に、
とりあえず「どんな目的があるんですか?」「何に使うんですか?」と、まず勘ぐられるのはやっぱちょっと寂しいな。なにか理由が無きゃ、他人は所詮他人、見たいなニュアンスがあって。
そしてそれが、広島が(さしあたっては)岡山のようになれない理由でもある気がする。

もっと壁を壊したいな。自分の壁も、他人の壁も。


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選挙のこと。


選挙に行って来た。
今、住んでいるのは広島市内だけれど、住民票は田舎に或る。
と言うことで、ちょっと用事があったついでに投票して来た。

でも、選挙って一体なんだろうか。
今日、たぶん生まれて初めて選挙に行って投票して来た。
一瞬で終わったその行為に、思った以上の緊張感が走るのを感じた。

今、広島市内に住んでいると、普段から昼も夜も割とうるさい都会だ。
が、ここ最近は特に騒がしかった。
通勤中に仕事中に、その他の時間にも常に、近くで選挙カーが騒音をまき散らしながら
走って止まなかった。
たまらなく嫌悪感の涌く期間だった。
なんだか皮肉にもって言うんだろうか、こういう現実に直面したことで、
都会に住んだことで、これまでの人生の中で一番、選挙を身近に感じたかもしれない。
こんなイライラの中で実感するとは。
ただ街中を、立候補者名と政党名だけを叫んで走るor練り歩くだけというアピールに、
何か意味があるだろうか。
私の直感だけれど、国民の無関心はこういう選挙の形に端を発しているのではないだろうか。
アメリカの大統領選挙のように、もっと時間をかけて、もっと国民一人一人をしっかり巻き込み、
議論を尽くした上で決めるべきではないだろうか。
ひたすら街中でがなり立て、内容の無い騒音をまき散らす選挙戦を戦ったところで、
誰が勝ったとしても、所詮それでは国民はサブリミナルで投票していると言わんばかりじゃないか?
政治家のツイッターが少し問題になりかけている気配があるけれど、ツイッターもテレビでの党首討論も、政策アピールの場を限定して十分な議論も無く、それぞれの政党や候補者の露出度だけを公平にしたところで、それで本当に国の未来を考えての投票が出来るだろうか。
いい政治が生まれるだろうか。


投票に行く直前、母と母の友人の会話を聞いていた。
その中で、更に多くの疑問が涌いた。
第三極が乱立して、混乱を招いているのは理解できる。
だけれど、だからといって、第三極に政権運営能力がきちんとあるのかを疑問視するところまでは分かる。
でもそれで、自分の票が死票になって欲しくないからと自民党に入れてしまうの?
少なくとも、国民がはっきりと表明したはずの世論である脱原発を、「ただの感情論」とか「ポピュリズム」と言ってしまえるような政党に投票してしまうの??

国民の義務って、選挙に行くことだけなの?
選挙の時にだけどうして欲しいとか考えて、選挙の時にだけ自分たちの意志を示せばいいもの?
昔、どこかで「日本は江戸幕府の支配が長かったから、政治は全て御上に任せて、ゆだねてしまっている」という論を読んで、いやそんなことは無いだろうと何となく思っていたけれど、実際そうなのかもしれない。選挙の時にだけ、対して何も考えずに、なんだか上辺だけの意思表明をして、後は自分たちの責任を忘れている気がする。
でも、投票所に行きながら考えたことは、選挙に行って投票するということは、その結果にも責任を持たなければ行けないと言うこと。
投票は有限責任(その場だけ)と感じている人が多いのかも知れない。それで、あとは政権の所為にして、自民がダメだったから民主、民主がダメだったからまた今度は自民とデタラメをやろうとしている。
でも、国民が投票に行くと言うことは、本当はそれ自体が義務なのではなくて、そんなのは義務の始まりでしかない。投票とか国政に意思表明をするということには、国民として無限責任がそれぞれの肩にのしかかるという重みを感じた。
「選んだ国民にも責任がある」というお決まりのフレーズの意味を、やっと実感した。自分たちがこれからの日本を作り上げて行く、それは国会議員の仕事と思ってはいけないし、投票の時だけに発生する責任と思ってもいけない。

もし本当に自民党が大勝するとして…これがファシズムに繋がらないように、或る程度の勢力を持ったカウンターバランスを用意出来なかったら、でもそれも自分たち自身で選び取ったこと、と言うことになる。その重荷に一人一人が耐えられるような自己とシチュエーションとを作り出しておかなければ。


今日は、投票に行く前に、江田島の旧海軍兵学校を見学した。
小さい頃から慣れ親しんだ場所だったけれど、その分、真面目に見学することも無かった。
大人になってからまともな説明を受けながらの見学はこれが初めてかもしれない。

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今日の説明で、大講堂で行われる卒業式に、戦後の国会議員で唯一、国会議員席に座ったことのある人物が小沢一郎だと聞いた。
小沢氏の息子で、旧海軍兵学校を卒業した方がいるらしく、その息子の卒業式に出席したのだとか。
正直それまでは小沢氏のイメージは私の中でもよくなかったけれど、その話だけで、自分が思っていた小沢一郎像が書き換えられた。軽々しくも勇ましい言葉でナショナリズムを煽ることはしない。けれど、いざとなれば自分の子息をも戦争に送り出す覚悟がある。国を守る為に選ばれた隊員たちに堂々と敬意を示すことが出来る。そんな国会議員が今もいるとは思わなかった。
それで、日本未来の党はもともと推すつもりだったけれど、尚推していいと思えた。

私の地元の選挙区の立候補者は3人。以下のメンツ。

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小選挙区は共産党の尾崎ひかるに入れて、
比例代表は日本未来の党と書いた。
これで終わり、じゃなくて、これからが責任の果たしどころ。誰かの所為にせず、ちゃんと見守って行こう。

自分には似合わない悩み。


今やっている仕事は、勉強になることもたくさんあるけれど、それ以上につらいことが多い。
社会経験が無いと言う部分もそのつらさを後押ししている部分はあると思うけれど、
それ以上に自分がやるべきではないと自分で思っていることをやっている所為かもしれない。
だから、今までの自分が持っていた悩みとは全く質の違うものを抱えてしまっていて、
どう解決して行くべきか分からずに悩んでいる部分が半分。
もう半分は、どうして自分が自分自身の求める高みを目指しているとは思えない悩みをそもそも持っていることに対して、どうしてこんなことで悩まなくちゃいけないんだろう、と思う部分。

今週頭にもちょっとしたトラブルがあって、
逆セクハラしてくるおばさんから、私がセクハラしたというクレームが入ったらしい。
どうしてそういうことになったんだろうと、悩みながら、そんなことで胃を痛くするのもアホらしいとも一方で思いながら友達に電話で相談したら、

「あなたはそんなくだらないことで悩んでいる場合じゃないでしょ」
って言ってもらった。


その台詞で安心するけれど、でももう一方でやっぱり、
問題自体がまだ解決していないのは事実で、どうしてもそのことを考えてしまう。
おかげで、今日の昼食はいつも以上に箸が進まず、おいしいとも思わなかった。
このままじゃ、今集中しないといけないことにも集中できない!


こんなに落ち込んでばかりもいたくないのに。もっと楽しい悩み方が出来るはずなのに。
あぁ何やっているんだろうって思いがつきまとう。
早く洗い流して、自分らしい悩みを取り戻さなきゃ。


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