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「モーターサイクル・ダイアリーズ」そのに。


昨日は前半の、バイクに乗っての旅が終わるまでの感想だった。
正直な話、しかしそのバイクが壊れて直せないとなったときに、
私は、映画の二人は新しいバイクを買って旅を続けるものだと思ったのだった。

そしたら、全然違った。
何と、徒歩とヒッチハイクと船での旅になっていた。
あれ?「モーターサイクル・ダイアリーズ」なんじゃないの??

明るくてユーモアであふれていた前半と、タッチも全く違う。
どこまでも走ったり叫んだりしたくなるような景色がぱったりと出てこなくなる。
例えばあこがれのマチュピチュが登場したときも、
その美しさよりも険しさ、孤独さ、悲壮感と言ったものがまず襲ってきて、戸惑った。


この映画の主人公は実は若かりし頃のチェ・ゲバラで、南米中の診療所を廻りながら
彼がハンセン病の研究をするという目的で旅をしているんだけど、
映画の後半で彼が歩いてその目で確かめていくのは、歴史の中で分断された南米。
それとハンセン病患者に対する差別とかもあったのだろうとは思うけれど、ハンセン病に関する知識が私にはないのではっきりとは言えない。

少なくとも彼がバイクに乗っていたならば言葉を交わすこともなかったかも知れない人々と彼が出会い、
お茶を分け合い、音楽を奏で、サッカーをする中で気付かされたのは、
それが歴史の、昔の話ではなく、今でもずっと、南米は分断され続けているということだったのだと思う。

私は今までチェ・ゲバラと言う人のことは全く知らなったし、知ろうともしなかった。
チェ・ゲバラはアフリカでも人気があるようで、ブルキナでも彼の顔がプリントされたシャツを来ている人を時々みかける。
これまで、どうしてゲバラがアフリカで人気なのだろうかと不思議には思っていた。
けれど、はっきりいって調べるほどの興味もなかった。

だけれど、この映画を見てはっきり分かった。
南米もアフリカも、分断された歴史を持つからに他ならない、と。
そして彼はその後、分断されてしまった南米をどうにか繋ぎとめて、再び繋ぎ合わせるための闘争をしていたのだと。だからアフリカでも人気があるのか。

さらにいえば、南米やアフリカだけの話ではなく、分断されたのは世界だった。
白人たちが世界に進出したときに、植民地化を進めていったときに、
アフリカに国境がひかれた、南米がばらばらにされた、というだけの話ではなく、
世界全体が引き裂かれていったということを無意識に直感している人たちなのかも知れない。

少し前に、白人の歌手が「世界を一つにしよう」なんて歌っているのを見かけて、
なんかうすら寒いなぁと思った。
一方、アフリカの人たちは「ヤツらが世界やアフリカをばらばらにした」と歌っている。
南米とかアフリカに共通している感覚というのはこれなのかも知れない。
いままで世界がばらばらだったと思わされているのは、植民地化や世界大戦の記憶を今の世界から薄めてしまって、また同じことを繰り返そうとしている西洋諸国に見せられている幻想なのかも知れない。
実際、リビアのこともアフリカ人たちは冷静に
「フランスは石油が欲しいがためにまた侵略をした」
と話している。
某J国は本当はこんな戦争に賛成してはいけないんだが。
イラクの時とまったく同じく、どこかの大国を盲目的に追従するのはもうやめて、自分でいい悪いの判断ぐらいできなくちゃいけないんだが。
旧戦勝国の集まりが今でも内輪で談合やってそれを世界の合意みたいに見せていることにもいい加減、
常に疑いのまなざしを持っておかなければいけないと思う。

さて、世界は今までばらばらだったものを、今はじめて一つにしようとしているのか?
それとも、もともと一つだった世界がいま、分断されてしまっているのか?
この違いは大きい。が、その選択肢が日本にいるとなかなか与えられない。
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「モーターサイクル・ダイアリーズ」そのいち。


「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画の、前半の感想。
これは、平たく言って南米を二人の男がレトロなバイクに乗って旅するというストーリー。
飽くまで前半のあらすじ。
後半は全く別の内容になっていて本当にびっくりしたんだけれど、
タイトルがタイトルだから後半ももちろんバイクにまたがって旅する話だと思うじゃない??
でも違った。あぁ。
とりあえず、何日かに分けてみた一日目はちょうどそのバイクでの旅が終わるシーンまで見たので、その話。

この映画の前半は、特に対して意味がないと、少なくとも私には思えて、
バイクが好きな人がそのレトロなバイクやエンジン音を楽しむための映画かなと思った。
実際、嗄れたエンジン音は私のことも今すぐに旅にいざなってしまいそうだったし(状況が状況ならば、ね)
映像も、どこまでも続くまっすぐな地平線を追いかけて行きたくなるような、
吸い込まれそうな空だったりが映されていて、完全に旅映画だと思っていた。

私はその日の昼にちょうど、バイクのオイル交換をしたばかりで、
そうしたらエンジンやチェンジペダルがものすごく軽くなっていて、
一緒に気分も軽くなってそのままふらっとバイクにまたがって旅に出てもいいかなとか考えていた。

だからこそ、気の遠くなるような距離を気の遠くなるような時間かけて旅するこの映画はいいなぁと思った。
旅しながら、行く先々でいろんなトラブルを起こしつつもも笑いながら旅ができるのにはあこがれる。

しかし、よくこける映画だったなぁ。。。
3,4回はこけた気がする。
今見たいなヘルメットでもないのに、よくあんなにこけて平気だなぁ。。。
明日の感想に続く。

何となく好きな薬


昨日まで飲んでいた薬が、薬その物もすごく薬っぽくて、
それから薬のボトルも三角形が特徴的で可愛らしかったので、
写真にとっておいた♪

IMG_1934.jpg


胃痛に効く薬として出してもらったもので、
この薬もどこまで効き目があったのかいまいち疑問なんだけれど、
とりあえず体調は落ち着いている。

だけど、この大きなボトルの中にたった7粒しか入ってない…
だから毎日一粒ずつ飲んで、一週間でおしまい。

10日間以上も首都で過ごして結局、原因は分からずじまいで、
なにはともあれ、活動ができるぐらいにこのままおさまっていてくれてればいいんだけれど。

今朝、活動で村に行って昼に帰ってきたら、
今まででは考えられないくらいに疲れてた。

無理をしたら本当に死んでしまいそうな所にいるので、
しっかり休みながらやっていこうとおもうこの頃。
去年よりブルキナべっぽい仕事の仕方かも(笑)

神のみぞ知る。


「それは神のみぞ知ることだから」
とイスラム教徒たちがいうのは、彼らの教典に『未来のことを予測してはいけない』と書いてあるから、らしい。
次回に会う約束をしようとしたときにこのセリフを言われて、ドテーっとなってしまうことがよくある、なんて話を最近聞いたけれど、確かに日本にいながらにしてこんなセリフを吐かれた日にはたまらないだろうなぁ、と思う。

が、一方で環境が厳しいブルキナで生活していると、このセリフに思わずうなずきたくなることが度々ある。
ちなみに私の周りにいるムズリマンたちは、ちゃんと約束をしてくれるよ。彼らの名誉のために(ってもしかして、敬虔なムズリマンではないということになってしまうのかな??)。


未来のことは、神のみぞ知ること。私たち知ることは許されない。
本来なら私は今頃、セネガルで行われている広域研修に参加して、水を利用した村落開発に関する研修を受けていたはず、だったのに。しかし現実にはこうして、原因もはっきりしないまま痛みも(落ち着いてはいるけれど)抱えたまま任地に戻ってきて、

だけれどセネガルに行っていたはずの日程に任地に戻ってきても、活動の予定があるわけでもなく、
事務所のみんなも体調をものすごく気にしてくれるから、とりあえずは事務所でおしゃべりをしていたり。

本当は病院に行くにもほんの2,3日だけワガにいて、そのあとすぐに任地に戻るつもりだった。結局、まるまる一週間もワガにいて、この週に任地でやる予定だったことは当然ながら、全く何も手つかず。


病気をしていた間にこの話を聞いて、病気の間にちょっとだけ考えてみた結果として私は思うのだけれど、もともとイスラム教は、人間が生活していくには厳しい砂漠で生まれた宗教だから、体調を崩すとか病気になるというのは稀なケースではないのかも。
そんな中、イスラム教徒(になる前の、砂漠の民)たちは予定をいれていた日に病気になってしまってドタキャン、なんてことが相次いだからイスラム教では「約束なんてしたら、むしろ相手に迷惑がかかってしまう。自分の予定を細かく決めるのは人をイライラさせてしまうことだし、これは禁止しよう」みたいな経緯で未来を予測してはいけないことになったのかもしれない。
冗談のつもりで「それって日本で『死んだらごめんね』っていう感覚に近いよね」って言っていたけれど、案外あってるのかもなぁ。


未来のことは、神のみぞ知る。
明日のことは誰にもわからない。

考えすぎるのかもしれない。思いつめるよりも、郷に入っては郷に従え。明日のことをもっと神に委ねてしまったほうがうまくいくのかもしれない。

強欲は世界を救う??


いちいち目に入るものに足を止めてその意味を例え浅くでも求めようとしようものなら、
地下鉄にも乗れないほどに色々な情報があふれている。
それを基本的には私たちは全部、無意識の部分で受け止めている。

ということを考えると、妙に意味深になって来るのがこの絵。前回のブログでも紹介したけれど、
この右下にハンバーガーショップが描かれている。このハンバーガーショップの絵がひどい。
看板におもいっきり、
「Do not think. Eat!」
と書かれている。





これをみて一瞬私は、某米国企業がモデルなのだなぁと思ったけれど、
よく考えたら某米国企業は元祖なだけで、みんなこれをやっているのだ。
サブリミナル効果を使用することは一応、禁止されているらしいけれど、
コンビニだってファストフードだってそれ以外だって、
意識と同時に無意識にも積極的に働き掛けて売上を伸ばすことに必死。
私たちは自分で考えて消費しているつもりで、実際には首根っこを捕まれて買わされていることも少なくない。


例えば心理学だとか行動経済学だとかいって人間の脳の仕組みを解明してきた人々については素直にすごいと思うし、
尊敬もできると思うけれど、それをこうして社会の中で応用し、次々と人間が考えないことを促進する世界を作り出してしまっていることに関しては
私は率直に言って、気持ち悪いとおもう。
相手がどれだけ考えずにすんで、単純に操れることができるかを必死に考える世界は
今後も人間は自分達の文明をそういう方向に持って行くのだろうか、
もしそうなら自分はそこに属する個人として居心地があまりよくないなと思う。

ちょうどこの看板を見かけるすこし前に新聞のコラムで、「強欲は世界を救う」と題されたものを読んだ。
日付とかページは覚えていないけれど、そこに書いてあったことが
経済を回す理屈として正しいのは認める。
ただ、そうやってGDPの数字を大きくすることばかりを考え、
経済的な豊かさがあればハッピーだと言ってさらに消費を煽ることばかりをする。
考えているようで、その実何も考えていない気がする。
あるいは考えないようにしている。
もしそれが「世界を救う」という意味になるならば、やっぱり私はこの世界をバラバラに壊すところから始めたい。

私はこれ以上の経済的に恵まれた生活が必要かは分からないし、いまよりも恵まれた経済性を達成するためにアメリカや北欧小国のように
ないものをあると言い張ってついでに大金も張って、じつは自分の手役はブタかせいぜいワンペアでしたみたいなことをこれ以上続ける意味があるとは思えない。
強欲が世界を救う、世界をつき動かす時代はもう終わった。
パイが無限に増えると思われた時代は終わって、今や強欲はゼロサムゲームを加速させるだけ。
西洋文明同盟がイラクやリビアに侵攻したことも、そのことを物語っている気がする。
若者のニューヨーク占拠もヨーロッパが始めたリビア戦争も、同列に語るべきことではないだろうか。

何年も前に見たシャンパングラス構造は、いまやますますいびつな形になっている。

近未来の都市について考える。


今月始めごろの話だけれど、久しぶりに夢を覚えていた。その頃は目覚めの悪い日が続いていて、
そんな中でその日には特に朝、布団から這い出せず、夢の続きを考えていたのを覚えている。

私が逃げ惑っていたビルやエレベーターはなんというかちょっと近代的で、
開放的な空間に曲線を多く用いて構成してあった。。。

それが近未来的というのは私の乏しい想像力が勝手にそう思い描いているだけかもしれないけれど、
とりあえず普段自分が見ている空間構成とは全然違ったな、と感じた。無駄を極力、許容する空間の使い方だったように思う。

空間の話はいったん置いといて、その日の夢の話をすると、スターウォーズみたいな話で(笑)、
自分達は侵略される側。マーケットで仕事をしながら「いつ、奴らがせめてくることやら」
と話している矢先にその奴らが現れ、みんな散り散りになって逃げる。
せめて来るのがスターウォーズに出てくるクローン人間に似ていて、緑色の鎧を着ている。
私はそのうちの一人に執拗に狙われて、エレベーターとかを使って逃げるんだけれど。
あれでなぜロケット弾や拳銃の弾に当たらずに無事に逃げていたのか、よく分からない。あ、夢だったからか。。。

とにかく夢から醒めても、その緑色の鎧が忘れられず、暫くは布団から這い出せずにぼーっとしていた。
このところ、朝だけでなく色々とつらい。


空間認識の話にもどると、近未来の空間使用については多分、方向性が二つあって、
一つは空間をどれだけ無駄なく使えるか。一定の空間にパズルのように、いろんなものを収めながら
居心地よさ、機能性を維持するか、ということがテーマで、
そのいい例がカプセルホテルだと思う。コンビニやデパートもおなじ路線で、
何気なく配置しているようでいて、全ての物に役割や位置づけを与えている。
コンビニとかの構成は売ること、流れを作ることが目的なのですこし違って見えるかもしれないけれど。
生産ラインのカンバン方式とかもこれに当たるとおもう。

一方で、無駄を極力許容するという空間はあまり例が浮かばない。
敢えていえば自然の在り方ということになるのかもしれず、効率化を目指しているのが人工ということならば、
近未来的なイメージで無駄を許容するというのはちょっと違った解釈なのかもしれない。
一つだけおもいつくのは、ゼロ円ビジネス。ネットとかでよくある、ほとんどの人はただで利用しているけれど、
一部のカスタマーがプラチナ会員みたいな感じでレベルの高いサービスを受けるためにいくらか支払うという仕組み。


これからはいったいどちらがイニシアティブをとって都市設計をしていくのかはわたしには分からないけれど、
多分完全にどちらかなのではなく、どちらもその長所を上手く利用して組み合わせながら、
遊びを持たせながら作って行くんだろうとおもう。
近未来のイメージでパズル型の例、2ヶ月前にメトロのホームで撮った写真がある。
そのイメージについては全く別の言いたいことが歩けれど、それはまた次回に。

この絵なんだけれど。



実際には都市レベルでの空間認識ってまだまだレベルの小さい話かも知れず、
将来的には東京ー大阪間が6分や10分で行き来できる時代が来るかもしれない。
今まで頭の中や机の上で計算していた仮想の空間が実現される日は、
多分その時には呆気ないと思うぐらいに当然のような顔をしてやってくるのだろうな、なんて思ってみる。

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