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結論:結局、鍵なんてあってもなくても同じことなのだ。


退避になるまでブルキナで使っていたカバンは、底が小さいのに無理やりパソコンを詰めていたために破れて穴があいてしまい、しかも白いのを使っていたので埃で全体が黒や赤茶色に汚れてしまったので、日本に帰ってくるなり捨ててしまった。

で、今回持ってきたカバンは色も黒いもの、そして入れたらパンパンになってしまうけれどなんとか無理せずにパソコンが入るサイズ。やっぱり新しいカバンを持っていくと、みんなが「いいね」とか「ちょうだい」とか言う。そんなに欲しいのなら日本に帰るときに、またぼろぼろになっているかも知れないし、でもぼろぼろにしないつもりで買ってきてはいるけれど、誰かにあげたっていいかもしれない、と思う。

で、そのカバンにアクセサリーで鍵がたくさんついている。カバンと一緒に買った。5本のカギ。
で、おそらくブルキナべたちも飾りだと分かって聞くんだろうけれど、「それ、いっぱいついているけれど、何の鍵なの??」と聞かれる。なんだか面倒くさいと思うとそのまま「アクセサリーだよ」と言って終わらせるんだけれど、時々ちょっと気のきいたことが言いたくなって、「これが友達の心の鍵で、これがあの人の心の鍵で、こっちのはあなたの心の鍵で…」見たいなアホなことを言ってみる。
それで笑ってもらえる時もあるけれど、全く通じなかったときもあった。「これが家族の心の鍵で、だから遠く離れてても会話ができるんだよ」(言ってみただけだからね)と言ってみたら、彼は妙に納得した顔で

「あーなるほど。電話だってあるし、ネットだってあるもんねぇ。遠く離れていても会話ができるよね。」

……
まぁそうだけれど。ネットとか電話とかあるけれど。ごめんなさい、ウソでした。。。
と説明もできないくらいに自分で自分に唖然として、そういうことにしておけ、と思って頷いて返した。




何年か前に海外旅行した時に、ドイツで知り合った日本人が友達のブログをネットで見ている横に居て、ブログで海外で暮らす中で英語で言いたいことが上手く言えないことにもどかしさを感じる、悩む、と書いてあるのに激しく共感しているのを見た。その時に、外国語を使うということはそういう悩みを持つことなのかぁと、もし自分が海外で暮らすようになったら同じような悩みを持つのかなぁと、ぼんやり思った。その時から具体性は全くなかったけれど、海外で(というかヨーロッパで)暮らしたいとか考えていたから、そういうことを少しぐらいは想像してみた。
で、ヨーロッパじゃないけれどブルキナで暮らすようになって、自分が言葉で抱えている悩みと言えば…ひたすら、報告書。はじめて配属先に、一か月の活動をまとめて報告しようとしたときに、自分のつづった言葉が悉く別の言葉に置き換えられていくことに屈辱とかそういう感情のものを感じて、あの時は本当に泣いた。直してくれている同僚に、「いったい、なんでこれじゃ駄目なの??」と半泣きで怒鳴ったりもした。さすがに今、泣くほどのことはないけれど、それでもフォーマルなフランス語を並べていく作業は苦手でしょうがない。活動の折り返し地点を日本で迎えて、10月になってやっと活動の中間報告、それも上司の上司でありプロジェクトリーダーである州局長の前でのプレゼンで、加えて本当は5月初めにやる予定だったものがやっとできると言われれば気合は入るものの、このフランス語の壁を前にすると途方に暮れる。

でもそういう時に、ちょっと思い出して「こんなはずではなかったのにな」と思うのは、自分が悩んでいるのが自分の表現したいことが表現できないからではなくて、自分の言いたい言葉が自分なりの言葉にしたときに相手に通じないからではなくて、主にときと場合に応じたフランス語に適応しきれていないからだったりする。
もしかしたら私が表現したいと思うことをあまり持っていないせいかも知れないし、同じ悩みを持っていても意識していないだけかも知れないし、そもそもみんなが持っている言葉に関する悩みというものを私が取り違えている可能性だってある。

ただ少なくとも、私は鍵の話をしたときに、誤解させることを言った自分が悪かったなぁと、アホなことを言うのはもうやめにしようと思った。言いたいことが伝わらないとき、というか自分の考えに納得してもらえないときというのは、日本語で話しているときのほうが多い気がする。

外国語だと上手く表現できない、というのは私が思うに、ただの主観な気がする。多分、日本語でだってうまく表現できないことはものすごく多い。言葉ができればできるほど、逆に言葉の限界に気付かされることも多い。言葉ができないときにぶつかるのは自分の可能性の問題なのだから。
だから自分が表現できないことに納得できるのは分かる。でも、そもそも日本語で話しているときにだってお互いの想像力というか妄想力というか、誤解したままで済ますことができる能力がなきゃ、多分コミュニケーションなんてものは成立しないと。私は常々、そう思いながら生きています。

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勝手に自分に言い訳している毎日


ブルキナに派遣される前の、水の防衛隊のための技術補完研修とか駒ケ根訓練所やらで、「かまどようこさん」の話を聞く機会が多かった。駒ケ根では直接、本人が話をしてくれたりもした。一緒に技術補完研修を受けてマダガスカルに配属になった友達の前任者で、マダガスカルの村で改良かまどを広めた実績が評価されたことで、その人の活動がよく取り上げられていたのだと思う。
その人は謙遜して「自分は何もできなかった、なんの技術も持たずに行った。結局ただのちんどん屋だった」と口癖のようにしきりに繰り返していた覚えがあるが、かまど普及の大きな要因になった、住民に深く受け入れられ、愛されるような振舞いをしていたことが素晴らしかったのだろうと思う。この基本的な認識は変わっていないけれど、自分がこの人のことで勘違いしていたと思うのは、ただ住民と仲良くなった、家族や友達のようになったというそれだけではやはり、かまどようこさんのように評価されるような活動にはならないのだということが最近になるまで分かっていなかったことだ。

自分が評価ばかりを求めて日々を過ごし、活動をしているわけではないけれど、実際にシビアに求められているものでもあるし、評価は結果についてくるのが道理というものであるので、ある日JICA事務所で先輩隊員の報告書をぺらぺらとめくっていたら、報告書の本文の横に手書きで「いい活動していますね」と書いてあるのを見てすこぶる落ち込み、若干の嫉妬を感じている、私というのはそういうものであって。「いい活動」が果たして何なのか?というところを掘り下げることなく感情的にネガティブに受け止めるだけではただ泥沼に足を深く沈みこめるような行為なのだけれど、要するに本当にその先輩隊員のように報告書に「いい活動していますね」と書かれるような活動が自分にできる気が全くしないというか、根拠なく考えられない。派遣前にはかまどようこさんの、住民に受け入れられているという部分ばかりを見て「自分もあの人のような活動ができたら」と思っていた自分の甘さというものを最近、まざまざと思い知らされている。実際に自分でブルキナに来てみれば、周りが全部黒人の中で一人だけ白い肌を晒していけば目立つのは当然で、「支援に来ました」と言って拒否されるはずもなく、こういう環境で多少文化が違っても向こうがそれを許容してくれたりもし、来る前のイメージと全く違って仲良くなるだけなら全く簡単にできてしまう。そしてその次のステップになかなか思いが至らないという自分にがっかりする。
このままだと専門家の人に言われた通り、ここでただの「伝説的な日本人」にはなれるかも知れないけれど、そのあとにここには一体何が残るか、という問題に今になってやっとたどり着いた。一生こうやって、遠回りばかりしている人生なのかもしれない。


大学で経済をやっていたときにすごく印象に残った理論があって、ただの何でもない「等価交換」というものなんだけれど、つまり資本主義経済のもと、市場が働いているときには全ての商品が適切な価格で取引される、その物の価値で間違いなく取引されるという、ちょっと聞いただけでは怪しくなるような理論。だけれど、これを飲み込んでしまえば、逆にこの理論に頼って何でも「適切な価格で取引されている」と結論付けることができる、ちょっと便利な理論だ。私はそういう理解でいる。
そしてそれが労働市場でも成立する、というのがこの理論。
完全にお金のみを報酬と認識してこの青年海外協力隊に応募したわけではないので、もらえるお金の話だけで片付けてしまうのは本当は間違っているのだけれど、とにかく向こうが提示した条件でこちらが納得しているのだから、市場は成立している。つまり等価交換が成立している。ひと月にブルキナでの生活費が20万フラン(4万円ほど)と、日本の口座に積立金として10万円位。つまり、私が悩みながら村に出かけていったり同僚とおしゃべりして過ごす毎日があって、そんな毎日が30日ぐらいに大して日本円にして全部で14万ぐらいの価値が認められていると考えられる。私の1か月のブルキナにおける労働、14万円。どういう労働にどれだけの報酬が適切なのかなんて、何をどう算盤はじいていいものか全く分からないのにこんなことをいうのも変かも知れないけれど、果たして本当に等価交換しているのだろうか???と疑問の3連符。

果たして自分がどれくらい月にもらっていれば納得するかということは全く持って分からないし、今もらっている額がちょうどいいのかどうかも突き詰めていないのだから、本来で行けば前提を確かめないままこうして曖昧な罪悪感とともにいる意味というのはどこまで行っても無価値でしかないのだけれど、ちょっと世界を見渡してみて、本当に価値をつけられると思う生産活動をしている(と、私から見て思える)人たちを見ていると、自分の価値を何度、確かめてみたところでやっぱりこれっぽッちにもならない、何をやったとしても所詮はゼロという答えに何度もぶつかってしまうわけであり、本当は生産活動が人間の存在価値ではないという哲学も一方で持ってはいるけれど、それをせめて自分のなかでだけでも絶対の尺度にできるわけでもなく、どこまで行っても自分の無価値さに追い詰められ続けるばかりで、何度計算をしても答えが同じ、自分の無価値さに追い詰められて、自分はやっとそれに耐えきれずにこうして身体を動かして、もがいているのかもしれない。そうだとしたらどこまで行っても後手後手、やっぱりこの状況はひっくり返らないな、という結論に達する。



そう考えると、またそういう無価値な自分が、でも他人のやっていることには価値を見いだして、あれにはいくら、と言って価値を認めてお金を支払っていたりするから、どうしてこうも世の中は矛盾だらけなんだろうか。

まぁでも本当は、無価値だと思うぐらいが自分を肥大化させずに済むし、気は楽に持てて、案外あっているのかも知れない。

5か月ぶりに、満天の星空を見上げた



久しぶりに任地に戻ってみたら、やっぱり色々と違う。懐かしいものもあるけれど、ああこんなものだったのかと何と言うか、不思議な気持ちになったりする。知っているはずの場所なのに、知らないことが多くて。知っていたと思っていたことを知らなくて。その境目がなくて、少し迷子になったような感じ。日本で生まれて日本で育って、日本を一年留守にするのと、ブルキナで10ヶ月過ごしてからブルキナを4ヶ月間留守にするのではインパクトが全然違うことに気がついた。

その戸惑いみたいなものはたくさんあったけれど、やっぱり雨季ってすごい。こんなに草が高くまで茂って、きれいに緑に覆われて、全く景色が違ってしまっている。出国したときには乾季の、乾いた風を浴びていたしね。



5か月ぶりに会うのに、みんな覚えてくれていて楽しい。でも仲がいい同僚によれば、みんなが私にこんなに優しいのは私が外国人だからであって、過大評価だということ。そんなもんなんだろうか???

子どもたちは相変わらず近所でサッカーして遊んでたりして、近所のレストランが少しきれいになっている。家は4ヶ月のうちにすっかり汚くなっていて、だから着いてすぐはとりあえず掃除をして布団を干してシーツや靴も洗って。それでも十分じゃなくて、自分のうちなのに妙に神経質になって歩いてみたりしている。
うちの近所の、きれいで大きくなっていたレストランにお昼ご飯を食べに行ったら、いつも食べていたリソースのまずさに感動。一年前はこれに満足していたというのが信じられないくらいにひどい味だった。が、他にないから味覚を落として適応するしか、やっぱり選択肢はない。だけど一度日本に帰ったということは一度そのまずさを的確に相対化してしまったということで、一度日本に変えるリスクは案外大きかったんだと実感した。

うちには水道が来ていた。と言ってもうちの庭まで。玄関から徒歩で20歩ほどのところ。それでも、蛇口をひねったら水が勢いよく出てくるのを見ると、やっぱり嬉しい。電気はうちの近くまで電柱を設置したらしく、「戻ってきたから工事の続きをしてくれ」と頼んでおいた。

バイクはバッテリーがきれいに切れてた。ばたばたしたから退避の時はバイクのことには全く注意を払わなかったもんな。エンジンの調子も最初は微妙だったけれど、乗っているうちにちょっとずつ調子を取り戻してきている。

そして、夜になると本当に真っ暗!!ゾルゴの街はこんなに暗かったっけ?というぐらいに見事に日が沈むと前がほとんど見えず、電気は通っているのに、蛍光灯がついている家の少なさには驚いた。日本やワガとは全然違った。街灯もないし。そしてうちの中に居るときに、日が沈んでいくのに合わせてうちの中もすごい勢いで暗くなっていくことにものすごく焦った。5ヶ月間も電気に不自由せずに暮らしてきたら、電気がない家でどう過ごしていいかすっかり忘れてしまっていて、おまけに乾電池でつくランタンも人にあげていて、あわてて新しいのを買ってこなかったら本当に、何もできずに寝てしまうしかできなかったんだろうなぁと思う。せめて水浴びぐらいは毎日しておきたい。


昔の隊員は電気なんてないのが普通だったんだろうけれど…今はパソコンとかネットがなきゃ話にならないのが現実で、報告書も旅行するための書類もネットで提出するのが普通になっているし。携帯電話も常に話せるようにしておかなければいけないのだから、ちょっと前の時代と電気がない不便さを簡単には比べられないはず、と思う。言い訳のように、ひとりで。

だけど、真っ暗な中で見上げる夜空は街灯とかがない中でこそ本当に見ることができるもので、天の川や星空がひっくり返ってしまいそうなぐらいに見ることができるのは、ある種の特権なのかも知れないなぁと。だからこの落ちてきそうなぐらいに満天の星空も流れ星も、今のうちにしっかり焼きつけておこう。

ファンタオレンジ、どうでしょう。


任地に配属される前に、最後の最後に。

また、ネイルをやっておきました。


今回は、何となくそんな気になって、ファンタのパッケージを真似てみた。
オレンジに、炭酸の泡とかをモチーフにした柄。

まぁはっきり言って自分としては…びみょーだけれど。

ファンタ大好きなブルキナべには受けること間違いなし!!


これから任地では、毎日ファンタを飲もうと思います。

ちなみに左手はフツーのきらきらしたピンク。
その上に、星柄とか青いカケラ?みたいなのを少し、散らしてみた。

IMG_1475.jpg


これで一カ月ぐらいは乗り切れるかな???

わが家がなくなった


例によって自動更新でお送りしています。次回から省略。
少し前、私が帰国する直前からちらほらと、
ブルキナに唯一ある日本食レストラン、その名も
「居酒屋 わが家」
がテレビで紹介されていたよ、と教えてくれる人が何人かいた。
なんでも日本から一番遠い日本食レストランという紹介をされていたらしく、
「あのお店の店長の、飯田さんって知ってる?」
と何度か言われました。

もちろん、ブルキナ隊員なら飯田さんやわが家のことは当然のごとく知っていて、
日本に居れば「こんなのがおいしいの?」と思うようなものでも、
大雑把でいい加減な味付けに対して鈍感になってしまった我々にはあれが、
ただおいしいものと言うだけでなく、料理や飯田さん本人、またカラオケが設置してあったりと、
まるで日本に戻ってきたかのような懐かしくかつ楽しい時間を過ごしたものです。


その飯田さんも今回の軍隊の反乱には一度、日本に帰っていたようで、
あるJICA関係者の証言によると「飯田さんは便乗帰国」。
またわが家を閉めるいいきっかけになったのでは、といういい方もしていました。
果たしてその言葉が正しいかどうか?そんなことはとりあえず、
ブルキナで唯一の日本食レストランは軍の反乱をきっかけに閉店しました。
テレビで紹介されて早々ですが、もうわが家という居酒屋はありません。

ただ、本人はめげる様子もなく、今度はワガドゥグの銀座と呼ばれるクルバ地区に
牛丼屋さんのオープンを考えているらしく、現在は物件探しをしているようで、
10月ごろには試作品を作るということで、ぜひ試食にお邪魔するつもりでいます。ので、その時にまた報告することにしましょうかね。

ところで飯田さんを先週、道路の真ん中で見かけた話をしますと。
その日の朝に飯田さんに電話をかけていたわけです。すると
「今日はちょっと村に行って夕方まで留守にするので…」と仰っておられたのです。
その日の語学研修の帰り、大通りの交差点をタクシーに乗って通過しようとしたときに、
すぐ横に青い車が止めてあり、そのわきで飯田さんと警察官二人が口論をしている様子。。。
その時は一瞬で通り過ぎてしまって何事か分からなかったのですが、
後日聞いてみると、信号無視で警官に止められたとのこと。
切符を切られそうになったときに、一緒に居た友人が
「彼は日本人だから間違いを犯すわけがない!!」
と堂々と主張してくれたそうです。
ちなみに、本当はどうだったのか聞いてみたら…どうも確信犯だったようです。


さてブルキナで食べる牛丼がどれほどのものか、一ヶ月後が楽しみですね。

軍隊のデモのこと。


私が任地について、
多分おそらく同僚の話では願わくば、10ヶ月間も電気や水道なしに過ごしたうちに電気と水道が来て、
自由に使えるようになっているという話なので、前より少しぐらいは快適な生活を送っていると思います、
今日この頃には。

ただし、ネット環境は相変わらずというか、今後もうちにネットを引く予定はないので、
数日間はメールも日本のニュースからも疎外された生活を送っているはず。。。

私が任地に着いて、久しぶりに同僚や友人に会って、
そういうことかそうじゃないことか知らないけれど、
次に何か書くまでにはしばらく時間がかかると思うので、
その間は自動更新でお楽しみください…

今日のテーマは、軍隊のデモ。
日本でも小さな小さな新聞記事が出たりもしたようなので、
手短にその軍隊のデモの話をしようかと。


ことの発端は、平和維持軍として首都に駐留していた隊を海外に派遣したこと。
ソマリアやコードジボワールになどに派遣されていた軍人たちが、
その海外赴任手当の少なさに不満を持って、不正に武器弾薬を持ち出して街中で発砲を始めた。
最初のデモの日に、忘れもしない、私はそんなことがあったとはつゆ知らず、
熱を出して健康管理員に何度も電話をして怒鳴られていた。

同時に、私の職場でもある女性に対して暴行をしたとして5人ほどの軍人が逮捕され、
その5人に対して裁判が行われて判決が出たということが話題になっていた。
その判決に対して仲間の軍人たちが不満の声をあげていることは聞いていたので、
てっきり私はこのデモのことを、裁判の判決に抗議するものとばかり思っていた。
それは首都ではなく、首都から東に200kmぐらいの地点にあるファダングルマという都市での出来事だった。
だから、首都に引き続いて各地で軍隊のデモというか発砲行動が行われたときに、
ファダングルマでは裁判所もその標的になっていた。

デモを起こした軍人たちは一度、ブレーズ・コンパオレ大統領と話し合いを持ったが、
その内容がひどくて、これは軍人たちが納得しないだろうと思った。
具体的にどういうものだったかは覚えていないけれど、
案の定、デモは悪化の一途をたどり、私たちが帰国することになった4月の後半、
首都に上がってくると、
ガソリンスタンドは破壊されて動いておらず、バイク店のショーケースも破られてバイクがひとつ残らず消えている、
高級スーパーマーケットも襲撃されて玄関口はぼろぼろ、もちろん営業していなかった。
いろんな店から水などの商品が消えて、営業をしていないところも多かったし、
JICA関係者もかなり怖い思いをした人がいた様子。
なかでも一番怖い思いをしたのでは?と思う人が、戻ってきてみると平然と仕事をしているので
この人はどういう神経の構造をしているのだろうかと少し不思議に思う。
戻って来てみたときに、何事もなかったように活気を取り戻していた街でも、
例えばスーパーではコンピューターを置いていた棚は全て空っぽになっていたり、
壁に銃痕が残っていたりした。

5月終わりから6月にかけて、西側の中心地ボボ・ディウラッソで大規模な反乱があり、
大統領はこれを大統領府治安部隊を派遣して鎮圧させた。
このボボでの騒乱が一番激しかったようで、反乱兵士たちの振舞いもそうだし、
本当に街中が戦場のようになっていた見たい。

これが鎮圧されてからは、割と平穏が保たれた状態が続いている様子だけれど、
国際社会の中では脆弱社会というレッテルが張られ、
落ち着いているように見えて実はとてもデリケートで、綱渡りをしているように不安定な国だったという形で認識された。
エジプトやチュニジアのデモとはあらゆる意味で全く質が違っているので、
おそらく一度は落ち着いたように見えてずっとどこかで火種はくすぶり続けているという状態が続くだろう。
それにしても、ブルキナべを守るためのブルキナ軍が、その役割を放棄して自らの目的のために国民を傷つけ、
また火事場泥棒に活躍の機会を与えてしまった罪は重いと思う。

少しずつでも、この国の国民が不安定さを解消し、同時に国民全員で発展する形で団結してくれれば、と思うのだが。

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