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近未来都市・東京



東京に帰ってきたのが4月22日、金曜日の夕方。そして23日土曜日のお昼頃新橋で、首輪をはめていない白い犬を見かけた。もう一度ブルキナに行くことができたら、ブルキナべたちに、東京の野良犬の話をしてやろうって思った。
その犬、私が信号待ちをしていたら、後ろからやってきてちょこちょこと歩いてきて私の横に並んで、そこで立ち止った。なんのためらいもなく立ち止まって、信号が赤の間中ずっと、横断歩道の向こう側を見つめてる。それで次第に目の前を通りすぎてゆく車が減って、それから信号が青に変わって私たちが歩きだしたら、横に並んで待っていた首輪のない犬も一緒に、歩き出した。一直線に横断歩道の真ん中を歩いていく。なんだかおかしくって、ちょっと笑えた。私自身もブルキナでバイクを走らせていた時、道を横切るいろんな動物や、道の真ん中でじゃれあっている動物たちに出くわしたりで避けるのが大変で、本当にブタとかムートンと交通事故を起こしそうになった。だから、きっと東京の信号待ちする野良犬の話をしてやれば、ブルキナべたちは喜ぶんじゃないだろうか、って想像する。


日本に帰ってきてから一週間がたって、意外と抵抗なく過ごしている。ただ自分が落ち込んでいるせいでそういう気分にならなかったり、ブルキナ生活の後で違和感を感じることがちらほらとある。未来の世界はどんな都市を街を作っているんだろうって想像することはあると思うけれど、東京はすでに近未来都市だった。SFの世界のものだと思っていたものがたくさん、実現している。それから、今想像しているものも、実現する(潜在的なものまで含めて)技術力がある。だからちょっと、タイムマシンに乗って旅行をしてきたみたいだと感じたりする。

ブルキナの情勢は大使館から連絡が入ったり、ネットでニュースを見ているけれど、芳しくない。大使館の警戒レベルは最高になって在留邦人には退避勧告がされた。JICAも専門家たちまで撤退して、プロジェクトも途中で中断。軍が暴力的な抗議行動は慎むことを約束したなんてニュースは見かけたけれど、軍以外にも今の国の状況や大統領に不満を持っている人は多いらしく、労組や野党のデモが今日明日で予定されている。ブルキナのブレーズ・コンパオレ大統領は23年間も勤めていて、去年も選挙に勝ったとはいえ投票率はごく低く、国民が支持しているかといえば疑問…それでもエジプトのドキュメントとかを見てみれば、あれほどは閉塞した言論状況じゃないとか、逆に村に行ってしまえばもっと教養のない人たちであふれていて、フランスから輸入した政治体系とこれほどにかみ合ってないものが同じ場所に存在しているという不思議があったりする。だからエジプトのレベルまでに抗議行動が発展するかといえば、そういう2重の意味で私はたぶん、そこまでじゃないと思う。ただ、そういう事態を目の当たりにしたのは私にとって初めてで、すでに想像を超えているから何とも言えなかったりする。
早いうちにブルキナに戻りたいと思っているけれど、たった1ヶ月でいい答えを期待するのは難しいかも、と感じている。
そんなことをぼんやり思いながら、中途半端な気持ちを抱えたままでも自分の家に帰ってしまえば、しっかりとこの場を整備したくなる。半ば物置と化している自分の部屋を少しでも快適に使うために、部屋にあふれる物を整理しようと棚を見に行った。家から車で1時間ほど行ったところにいつの間にかニトリができていて、両親もそこで買い物をすることがちらほらあるようだ。店を見てみて、ものすごく広くて天井が高い店内にシンプルなデザインの家具やインテリアがたくさん置いてあって、はじめての空間でちょっとはしゃいでしまった。大学の友人で一人、ニトリに就職したのがいるけれど、あいつもこういうところでこういうふうに働いているんだなと思ってみる。まだ静岡にいるのかは、よくわからないけれど。
服を整理するための、組み立て式のアルミの棚を買った。この組み立て式の棚が、たったの1400円。ほかの店なら3000円ぐらいしてもいいんじゃないかと思う。うれしいとかありがたいを通り越して、不気味な安さだと思った。
日本にいると、自分の生活に何か足りなければ買い足す。なんだって買えるから、ためらわない。整理できない。棚があればできる。じゃあ買おう。そうやって、今の生活にシンプルに足し算をやってよりよい生活を作り出していく。だからそのまま放っておけばものがあふれてしまうし、そうならないためには捨てるという行為が大胆に行われることが必要になってくる。
発想が全く違う。社会が違うから当たり前だけれど、ブルキナでは足し算をしなかった。お金があれば別だけれど、ない人には足し算の発想はない。できないってのも真理だろう。だから、足し算じゃない方法をみんなで模索していた。
もしブルキナ全土に十分な数の学校ができて、すべてのブルキナべが算数できるようになったら、ブルキナべたちにも足し算の発想ができていくだろうか。このままでいいんだろうか?

明日から、待ちに待った五月だ。学校の話でもしようかな。
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この長い一週間の、今がまだプロローグだと気がついた、汗がじっとりとにじむ重い空気の中で。



4月19日夕方、同じアフリカとは思えない、海沿いの緑にあふれた街に降り立った。象牙海岸に流れ込む川を挟んで東西に広がる街、コトヌ。ブルキナの隣国であり、同じく仏語圏のベナン共和国の首都だ。

小さめの飛行機のコクピットから、今通ったばかりの滑走路が少し見える。その通路を左に曲がれば、再び明るい太陽の下。5歩目を踏み込んだ瞬間に浴びる太陽光のシャワーと、湿気で重くなった空気が全身にまとわりつく。飛行機で1時間半飛べば、もうこんなにも別世界にやってくる。
思いがけない、ベナンでの30時間の滞在。JICAベナン事務所が手配してくれた車であわただしく事務所、そしてドミトリーへと移動する。ここで荷物を肩から下ろした瞬間に一同(全部で12人)は落ち着き、状況を整理して納得し、一応の心の平穏を取り戻す時間を得た。何しろ突然の国外退去、知らされてから24時間で出国をし、無理矢理に手配した日本までの複雑なフライトスケジュールや帰国後の手続きの調整などに追われ、その間中、緊張感は消えなかった。コトヌで一日過ごし、家族やブルキナにまだ残っている隊員と連絡を取ってお互いの安否を確認し、落ち着いて食事を取って体の汗を流して眠る。そういう時間のなかで、やっと自分たちとブルキナの、またブルキナにまだ残っているほかの隊員たちとの距離感を測り、これから自分たちがどうなっていくのかを考えることができた。その間も次々と大使館から送られてくる安全情報はいち早くチェックした。銃撃はひとまず、落ち着いているみたいだった。そして他の隊員のフライトの予定も次々に決まっていく。東京のJICA事務所で会うことが出来そうだと話した。緊張感は消えない。だけれど、昨日から張り詰めっぱなしの糸を緩め、少し冷静に事態を把握することは出来るようになっていた。
次の日の夕方、再びコトヌ空港に向け出発。ここで、別便でコトヌに着いたばかりの10人と合流し、パリへ向かう便への搭乗手続きをする。ブルキナ隊は全部で90人近くいたから、他にもまだ60人以上は残っているはず。そして合流したときに判明したのだが、後から来たこの10人がパリでは数時間の滞在で済まし、われわれよりも一足先に日本へ出発すると言う。一方の私たちは、パリに今度は20時間近く滞在の予定。そしてその間、パリ市内への移動は禁止された。e-チケットを渡されたときには誰も気付かなかったが、日本へ帰るのにまる4日、(また別の事情で)家に帰るまでにはまる一週間を、ワガを飛び立った瞬間から数えて要する。どっちつかずの落ち着かない状況が、まだもう暫くは続きそうだ。
真夜中近く、冷房が効いていない待合室で搭乗を待つ。飛行機の出発は遅れそうだ。コトヌに居たたった30時間の間に両腕に、また汗疹ができてしまった。こんなに温度が高くて湿気もあるのは、乾燥したブルキナでずっと過ごしていた私たちには少し酷だった。23時半コトヌ発、エールフランス便を待ちながら。

(続く)

しかしこの最低一ヶ月の不在は私にとって、減速装置よりも重い一時停止なのである。


突然私の身に起こった、4日間にわたる飛行機の旅。そしてもし、叶うことなら。翼ではなく今、自分の足で歩いていたかった。熱い風の中を下から見上げていた町並みが見る見るうちに地図を広げたような形になっていく。そして、多量の埃で水平方向の視界はひどく悪い。薄く曇っているか霞がかっているようにきれいに見渡せないでいるのは、今の自分たちの状況と似ている…なんて思ってみる。
太陽光と密集した人々の体温のためにさっきまで非常に暑く、搭乗者たちの全身に汗を滝のように流れさせていた機内の空気はいまや、エアコンがよく効いていて寒いくらいになっている。窓際に座っているビジネスマンは新聞を広げ、黙々と読んでいる。それをちらと横目で見れば、私たちを突然の空の旅へと誘った事件の一部始終を物語るイメージ――妙に閑散としたガソリンスタンドに詰め掛け、行列をなす人々をとらえた写真――を見ることができる。それは昨日私も、実際にこの目で見た光景だった。が、今私が問題にしたいのはその事件ではなく、私が自分のためにと頭上の棚から引っ張り出した2紙ともを隣の彼が「私も見てよろしいか」と言い、両紙ともがっちりつかんで手離そうとしそうにないという現実だ。なぜ彼は2紙とも取ってしまったのか。入国カードの記入に夢中になっていた私が悪いのだろうか。
いいのだ、もし彼が返してくれなかったとしても、私たちの頭上には全く同じものが何十部とつまれている…と考えながらその頭上を見あげると、折りしもキャビンアテンダントがその棚を空け、何十部というその束を取り出そうとするところであった。私の思念が強すぎて彼女に伝わってしまったのか…私は再び立ち上がることなくまんまとその2紙を手にすることができてしまった。

ことの発端は、と言えば。一体どこまで遡ればいいのだろうか。ミクロの視点で見たにしろ少なくとも、1ヶ月は遡る。が、決定付けたのは昨日の昼にかかってきた一本の電話だった。こうなることを予想していたものの、誤算だったのはこんなにも早く、という点だ。事務的な口調で受話器から聞こえたそのアナウンスは、私を一気に焦らせた。
「隊員は一時、非難します。孤立を避けるため、できるだけ早く首都に上がってきてください。」
焦っている気持ちとは全く別に、この言葉のために急ぐことにもなってしまい、隣人とガルディアンに助けてもらいながら家と荷物を急いで片付けたり準備し、そうして飛び乗ったのは2時半にゾルゴを出発するバスだった。諸事情から、ろくにみんなに挨拶もできないまま、駅に見送りに来てくれた隣人二人にだけはおおよその事情としばしの別れを告げあわただしく出発した。
順調に幹線道路を走りぬけて関所を通り、首都に入ったバス。問題なく、いつもどおりに2時間で首都の駅に着くだろうと思ったその瞬間だった。が、バスは期待を裏切り、工事中の道路の隣に設けられた仮設の道に踏み込む。この道が何発ものボディーブローを連続で私の原に決めてきて、軽くない吐き気をもよおさせる。ただのむき出しの地面ではない。50mおきに減速装置が設置してあるのだ。そしてバスの後輪の真上に陣取った私に対する衝撃に、バスの運転手はあまりにも無頓着であった。規則的にほぼ15秒おきにうめき声を発しながら必死にシートにしがみつき、それでも確実に目指す隊員ドミトリーは近づいていた。
この旅立ちの、気分は最悪だった。

(続く)

熱く乾いた風が今の私の胸には吹き込まない


ロンドンに行く夢を見た。多分、ロンドンのヒースロー空港だと思う。空港を見て分かるわけではないけれど、夢の中の自分はそう思っていた。飛行機でロンドンに着いて、ホテルに入る。エレベーターにみんなで乗るシーンも思い出した。そこに一泊して、次の日にはまた別の飛行機で旅立つはずの自分たち。これからアフリカに2年間、住む予定だ。そして空港の夢の中の自分はいつも、これから海外に住む心の準備に余念なく、そわそわしている。空港がヒースローだから、この際夢の中の自分にとっては行く先がブルキナかどうか、どうでもいい種類のものだ。これから海外に住む、という事実さえあればいいんだと思う。実際、夢の中ではこれから行く先については海外ということ意外、意識していない。ヒースローからはブルキナに行く便はないし、しかしトランジットしていくと言う部分に関しては合致していないでもない。
空港でどたばたしている自分を、夢から醒めた自分が見ておかしくて笑っている。いつもそうだ。どうしていまさら、出かけるときの気持ちをプレイバックしているんだろうか。夢から醒めてみれば、そんなことに思いをはせる余裕などなく、追いまくられる毎日なのに。
ブルキナに来てからの空港の夢で一番おかしかったのは、空港に着いてからチェックインなどに戸惑っている間に、飛行機が出ていたと言う夢。戸惑ったと言っても、カフェでコーヒーを飲んでいるシーンも覚えているから、飛行機に乗り遅れた原因は果たして何かは知れない。それにしても、ブルキナで半年以上も暮らしてから、飛行機に間に合わなくて慌てているシーンで目が覚めて、実はもうとっくの昔にブルキナだったという現実に直面したときは、おかしくて泣きそうだった。自分にしてみれば、なんとあっけなくというか、何の間違いもなしに出てきてしまったことか…例えばパスポートを忘れて空港に来ただとか、そういう間抜けを2、3やらかしていても不思議ではないのに、と思ったりする。そういうのがなくて自分も、物足りないのかも知れない。だからせめて夢の中でやり直そうと言う魂胆なのだろうか。実際、パスポートを忘れて飛行機に乗って(なので、おそらく国内線?)、飛行機の上でどうしようという台詞ばかりを繰り替えす、慌てている自分のことも夢で見たことがある。実際にそういう間抜けをやらかしたときには自分に対して腹が立ってしょうがないが、そういうことがなく、すんなりと順調に物事の波に乗っている自分というのはそれはそれで、なんだか不自然でつまらない気さえする。
不思議なもので、目が覚めているときには未来とか将来のことばかりを考えている。今日の午後のこともそうだし、明日のこと、週末のこと、半年先のこと、さらに日本に帰るときにはどんなことが待ち受けていて、自分は何をするんだろうかと…なのに一度眠ってしまえば、夢の中では過去のことばかり。こうも考えていることが違うのかと、不思議なことばかりだ。

たった一週間前にみた、日本出国の夢。もしも人間が少しでも未来を感じる能力があるのなら(予測ではなくね)、今この瞬間の自分のことを一週間前の自分は何だと思っていたんだろうか。今日の私は、昨日とは全く違う雲を眺めている。

日本のストイシズム




フランスの雑誌で震災報道を見ていたとき、日本のメディアを研究しているフランスメディアもいくつかあった。日本のメディアの文章をそのままフランス語に訳した文章を載せているものもあったし、いろんな雑誌の表紙を載せている雑誌もあった。日本のメディアの温度感を冷静に分析している雑誌もあって、そういうのを読む中で気になったキーワード『頑張って』…日本のストイシズムと『やくざ』…人助けをするマフィアの二つが目立っている気がする。やくざのほうは、阪神大震災のときにもそういうのがあったらしく、日本でも話題になったと思うし、私自身はあまり驚かない。むしろフランスのネットラジオを聴いてると、ものすごく細かくやくざの組の名前まで言っていて、そこまで言って分かる人はどれだけいるんだろうか…いや以外とフランス人は分かるのかも?(何しろ日本マニアとか多いし…)なんて思ってみたりしたけれど、もっと興味を引かれたのは海外メディアによる『頑張って』の考察だ。
私は日本人が頑張って、と言っているのを聞いてもなんとも思わないが、海外の人にしてみればこういうところから日本人の特徴というか国民性を分析してしまうのだと、かなり興味深い。「可愛い」という言葉がフランス語には置き換えられる言葉がなく、そのままフランス語になっているという話は最近知ったのだけれど、「頑張って」というのもフランス語にならないんだろう。増してや、その使い方。日本でも、英語を勉強する際にそのあたりの感覚の違いを知ることになると思うけれど、フランス語も英語と同様に、例えばテスト前とかには「幸運を(bonne chance)!」だとか、最終的には全てを決めて動かしている全知全能の神に祈るような言葉を投げかける。日本人にしてみればぶっきらぼうで、ここまで努力してきたのに最後には神頼みか運頼みか、適切に日本語に置き換えるならば「後は野となれ山となれ」が最もふさわしいのではないかとさえ思われる台詞だ。一方、同様のシーンで日本人は「頑張って」という。結果は本人の努力次第だと思っているから、とストレートに理解しても間違いじゃないと思う。努力すれば報われるというか、少なくとも本人の努力が結果に影響する割合は大きいと思う。
だから、テストの直前という種の危機でもない今、日本全体で「頑張ろう」だとかそういうコピーが目立つことに、ヨーロッパ人が向ける不思議色に染まったまなざしというのは、雑誌を読んでみると実感する。そして私はそれを、けっこう深い日本人分析だと思う。最近は「すでに頑張っている人に『頑張って』と声をかけるのは酷だから」と、英語やフランス語の感覚を真似た声のかけ方をする人が多いと思う。「うまくいくといいね」とか。私もよくやる。そういう中で、でもやっぱり今回の震災のような極限状態になったときに、「頑張って」「頑張ろう」というコピーが目立ってくるところ、あるいはおなじみの応援ソングたちが流れてくるところは、やっぱりちょっと海外を気取ってみたって日本人はそう変わってないものだなぁと言うか、英語やフランス語の感覚を真似た声かけの浅はかさみたいなものを感じる気がする。理屈をこねくり回したところで、みたいな。
一番最初に知ったのは、震災直後に帰国した隊員からのメールを見たとき、今日本に「頑張ろう」とかそういうコピーがあふれていると書いてあった。そういうところがなんとなく、日本っぽいなぁとか思いながら読んだ。そのちょっと後にネットでニュースを見たりしていると、実際にネットの広告でもそういうコピーがあふれているのをよく見かけた。自分だって誰かと言い合ったり、自分に言い聞かせたりとよく使う言葉ではあるけれど、こういうふうにあふれているのを見るとまた不思議な感じがする。声を大にして「頑張ろう」と声を掛け合う社会というのにはどうも、うまく入っていく自信みたいなものが持てず、ちょっと引いて身構えてしまう。
海外のメディアが日本のそういう、「頑張ろう」と声を掛け合う状況を取り上げているのを見て、私の中で少し感覚が変わった。「日本のストイシズム(stoïcisme)」と紹介されているのを読んでまず変わったのは、ストイシズム、とかストイックという言葉のイメージ。はっきりとつかんでいる言葉でもなかったけれど、私の中で日本語に訳すとすれば「我慢」だった。よくよく考えればつながらなくもないけれど、頑張る、とか努力するという言葉が変化した「頑張ろう」という言葉とイメージが重なることはなかった。そこの部分を海外の人の分析にまかせてみたなら、日本独特のストイシズムというのが確かに浮かび上がってくる。ただ頑張る、あるいは努力する、というのではなくて、お互いに頑張ろうと声を掛け合うことで作り出すストイシズム。声を掛け合って励ましあうことで、一人で努力するよりも多く努力できる。一人ではくじけそうなときでも救われると思っているし、乗り越えられるとも考える。そういう連帯感。
この海外から見る「日本のストイシズム」考察を読んで、今まで思っても見なかったけれど、私の中で今回の「頑張ろう」というコピーがあふれているのと、戦時中に日本国民が「欲しがりません、勝つまでは」と声を掛け合った状況というのがダブって見えた。戦時中のこのコピーにも納得がいったというか。どっちも本当に日本人らしい発想でできてることとか、戦時中からそんなに変わってないんだなって言うことも、実感した。ただシンプルに人数が多ければその分、足し算でトータルの力が大きくなるとか言うのではなく。西日本やブルキナにまで蔓延する自粛ムードにも同じような要素がある。誰かが頑張っているとき、苦しんでいるときには、その周辺にいる人もその苦しみを共有することで、それを自分たちが更なる高みに踏み出すためのキャパシティにできる。苦しみを共有することで強くなれる。そういう不思議な能力を持った民族なのかも知れない、日本人というのは。
辞書で調べると、『ストイシズム:禁欲主義』と出ている。間違ってはいないけれど、やっぱり「頑張ろう」とは重ならない。何かが違う。我慢とか頑張るって言うのとは同義じゃない。だからやっぱり「日本の」ストイシズムってよばなきゃ駄目だな。でも確かに、ストイシズムではある。欲を抑えることで強くなれると思っているのだから。
ニヒリズムであふれているようで、実は今でもみんなで一緒に努力すれば何だってできる、どんな困難でも乗り越えられると思っているのが日本人だなのかもしれない。

同情の押し売りならお断り。


『もらう』こと、『同情を押し売りする』ことに疑問を感じないこと

「アフリカってこうだからね。めんどくさいでしょ。」
と、一緒に村に来ている同僚がポツリとつぶやく。週末の昼下がり。私もブルキナにきて9ヶ月が経ち、いい加減この台詞にも慣れてきた頃だ。
さて何がめんどくさいのかと言うと、村人と待ち合わせを、例えば14時にする。14時に私たちが村に着く。日本の感覚で言えば、もちろん村人たちはそこに集まって待っているはず、だが…
「毎回こうして、村人が集まるまで30分とか1時間、待たなきゃいけないなんてね。」
公務員他、オフィスで働いている人たちには多少、そういう感覚がある。時間は守るもの。出勤時間や退社時間が決まっていること(守るかどうかは別にして)、書類を書く際に様式や期限など細かいルールがあることなど、いわゆる人間相手のサービス業の感覚があるせいだろう。が、村人は違う。基本的に太陽や自然のサイクルで生きている人々なので、私たちの持つ時間感覚に対してはかなり曖昧な人が多いし、のんびりしている気がする。学校に行っていない人が多いというのもひとつの原因かもしれない。私も一人で村に行ったときに、村人が集まるのを1時間ちょっと待ったことがある。その間、一緒に待っている村人のおおらかな態度というか、何も気にする様子もなくおしゃべりしている姿を見て大いに不安になったりした。この人たちを急かしたほうがいいだろうか、と。しかし結局時間の流れを共有していないのは自分ひとりなので、一人で不安になっていながら、平静を装って一緒におしゃべりを続けるしか手はない、と自分に言い聞かせた。そうして待っていたら、時間が遅れただけであとは万事うまくいっていたので、改めて「そういうものなのだなぁ」と思った。村人とランデブーをして、そのときになって連絡が取れなくなるときもある。待つことを嫌うときには、出直すこともある。実際にブルキナベたちと働くまでは、何度アフリカの村人のこういう習慣の話を聞いてもこの感覚は知らなかった。約束をして村人を待って1時間過ぎることは、珍しいことではない。その日もそういう状況だった。
さて、村人が集まるのを待っている間にではどうやって過ごすかというと、ひたすらおしゃべりをしていたりする。その場にいる村人数人が相手なので、大体はモレ語でしゃべっていて私は理解できないが、知っている単語が出てきたりはする。知っている単語というのは簡単でよく使うモレ語の名詞だったり、モレ語にはないフランス語の単語だったりする。そういうのをキャッチして、今は穀物の値段の話をしているとか、プロジェクトの話をしているんだなと推測できる。が、それがどういう内容かは、皆目見当がつかない。黙って座って聞いている振りをしながら全く別のことをひとり考えていたりすると、時々突然話を振られたり、ところどころ同僚がフランス語に訳してくれる。で、そのときはなにやらPROGEAや昔のプロジェクトの話をしているようだった。メガホンや自転車の話をしていた。メガホンなんてものが村にあるのか、と思いながら聞いていた。ただ、それを聞いてどうするでもなく、でもわざわざフランス語に訳してくれたのだから何か反応しなきゃと思って、聞いて見た。「電池で動くタイプのものか?」搾り出したのがこんなくだらない質問だった。ふんふん言いながら聞いてるだけのほうがもしかすると、まだましかもしれない。
そうよ、というシンプルな答えに同僚が続けた。以前に行われたプロジェクトでね、各村に支給されたの。村を巡回するために自転車を支給したプロジェクトもあったわ。でもPROGEAは何にもくれないわね。
「c’est ça le problème(そういうところが駄目なのよ).」
この台詞を聞いた瞬間、次の言葉が出なくなった。村人ならまだしも、同僚からこういう台詞が出てくるとは想像すらしてなかった。プロジェクトの専門家はそういう点について、村人にしっかり説明していて、PROGEAが村人に何かものをあげることはしないことを理解させたと言っていたが、農業省職員のほうがそれを聞いていないのか、それとも聞いていてまだこういう台詞が出てくるんだろうか。時々、こちらの人々のもらうと言うことに対する無邪気さ、無神経さみたいなのを感じる。ただお金持ちに対する社交辞令ならいいのに。今回特に感じたのは、日本人とは違うという感覚だけでなく、確かに、いわゆる援助漬けみたいな感覚があるのかもしれないということ。もらうこと、もらえることが当然と思っている部分というか。

しかし最近、そういうものの考え方が偏見に基づいてるなと考え直してみる。みんなが低開発国あるいは被援助国の援助漬けの話をし、理想的な援助の形を議論し、ブルキナベは「平気でものをねだる」と話しているのに影響されてしまっているからこそ私も、ブルキナベのそういう言動に特に注意を払って反感を感じてはいないだろうか?都合よくブルキナを低開発国あるいは被援助国に位置づけ、低開発国あるいは被援助国の人間の振る舞いに神経をとがらせて、それが低開発国の人間の特徴と言って決めつけてないだろうか。いや、そういう部分がある、確実に。つまり、ブルキナベや被援助国の人間がそういうことを言えば「甘えてる、援助漬けの所為だ」と糾弾しようとする姿勢。
逆に言えば、先進国の誰かがものをねだったとしてもそれはその人の性格。不快にはなるかもしれないが、その原因なんて私たちは知らないし、それを矯正する必要があるとはあまり考えない。

そうじゃない。そんなふうにずうずうしいのは被援助国の人間の特徴じゃない。日本人だって同じようなことを言っているじゃないか、と思わされたことがあった。
ブルキナ協力隊22年度1次隊の間で、今回の地震災害に対して義捐金を集めるためのチャリティプロジェクト『がんばれ日本!ブルキナTシャツプロジェクト』というアクションが提案された。被災して暗い雰囲気の日本を励ますメッセージをプリントしたTシャツを生産してまずは自分たちで着、それで日本の災害をアピールしながら義捐金を集めようというものだ。そしてあわよくば、ブルキナベたちにもTシャツを買ってもらおうということ(つまりブルキナベから義捐金を集めようということ)を企んでいる。
プロジェクトのコンテンツとしては、
①ブルキナでTシャツを量産することでブルキナにお金をおとす⇒経済的アクション
②Tシャツ着用により、地震のことをしらない、日本のことをしらない人へアピール
③売上金を義援金として送金。日本赤十字など。
という感じ。
私はここでシンプルに問いかけるが、地震が起こったら、たくさんの身内の人間がそこで苦しんでいたら、それを自らアピールすることが正当化されるか?自分は不幸だからと義捐金や募金を集めることが正当化されるか?私は首を縦に振ることはできない。絶対に無理。他人のことならまだしも、自分たちの不幸を自分たちで宣伝して相手に同情を強要することなど、許されない。
ものを食べながら手を差し出してきた乞食の子供に対して腹が立った、とある隊員が言っているのを聞いた。ブルキナベの目からも明らかに一般的なブルキナベよりも金を持っていて、基本的に不自由のない生活を送っている私たちが、地震で多くの日本人が亡くなっているという現実に直面して「私たちは不幸だ、私たちの家族が大変なことになっている」と呼びかけることは、構造的には同じじゃないか?私たちだって左手で食べながら、平気な顔をして右手を差し出してないだろうか。そして個人的な独断と偏見からものを言うけれど、モラル的にブルキナベよりも下じゃないか?とてもやさしくて私たちや私たちの家族を常に気遣ってくれるブルキナベたちを相手にすると思うからこそ、余計にそう思う。同情をしてくれると分かっていて、可愛そうな自分たちをアピールするなんて…そんなのはできない、と私は思う。
私は街にあふれる物乞いたちにお金を渡したことはほとんどない。スマトラ沖地震やハイチの地震のときなどにも、びた一文募金していない。多分、地震の直後にインドネシア人に会ったとしても、募金らしい募金をしなかったのではないかと思う。そういう後ろめたさもある。自分たちの不幸だけ、世界中のみんなに覚えていてもらいたい、同情してもらいたいと言っているような今回のプロジェクト…私は賛成できない。他の人たちがどれぐらい物乞いにお金を渡して、インドネシアのためにどれくらい募金したのかは知らないけれど、自分たちの不幸を胸を張って知らせられるほど、他人の不幸にも敏感になっている人なんて、どれだけいるんだろうか。
尚更、ブルキナの識字率・5歳未満児の死亡率・人間開発指数などのデータを知り、物乞いのあふれる街を見てまだ日本の災害をここでTシャツにしてアナウンスしようという根性は、どんな形にせよブルキナの発展に寄与するために来た人のすることだとは思えない。ここでは黙っていても多くの人々が不幸な形で、日本でなら防げる原因で亡くなっているというのに。
私は、堂々と悲劇の主人公を演じて同情を集めるようなまねなんてできない、と今回のTシャツプロジェクトの話を聞いて思っている。今でさえ、優しいブルキナベたちは日本のニュースを聞いていつも私に「家族は大丈夫か、日本のみんなは大丈夫か」と声をかけてくれる。街の教養あふれる人たちだけでなく、村に行ってもそうだ。活動で村に行ったら、日本のためにみんなで黙祷してくれた村もあった。そういう人たちだから、もしも「日本に同情して欲しい、義捐金を送って欲しい」と言ったなら、多分本当に喜んで同情してお金を出してくれそうな気がする。自分たちのポンプを維持するお金も四苦八苦して出している人たちだけれど。だからこそ余計に嫌だと思うのかもしれない。ためしに聞きたいけれど、誰かルワンダで虐殺された人々のために黙祷したことがある?コードジボワールでの市民虐殺のニュースを聞いて、なにか感じた?スマトラ沖地震の被害者のために募金をつのるために街頭に立ったことはある?100円玉で買える、5分で飲み干すような缶コーヒーニュースじゃないんだよ、ブルキナべにとって、日本人が地震と津波でたくさん死んでいると言うニュースは。

…少し、感情的になってしまった。ブルキナの村人に対しては冷静でいられるのに。
日本人なんだから「日本だけは特別!」とまでは言ってもいいかもしれない。だけれど、日本人じゃない人にまで「日本は特別!」と無理矢理言わせようとするのは、果たしてどうだろうか?

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