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ルージュ


ブルキナで私の愛車を勤めてくれることになった、新車のクリプトン・ルージュ。
つい一週間前、バスに乗ってゾルゴにやってきた。
以下、愛車をこのブログでは「ルージュ」と呼ぶことにする。

これが、ルージュ。

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ところでどうでもいいけど、ルージュ(フランス語で赤の意)と聞いて「またこいつ、色で選びやがったよ」と思っている人がたくさんいると思う。だけど言わせてもらえば、今回は事情が違う。結果的にいつものように赤を選んだけれど。

と言うのも、クリプトンはJICAブルキナ事務所が選んだ理由として「普及しているから(庶民性?と予備パーツが手に入れやすい)」と言っているけれど、実際に本当にたくさんの人がクリプトンに乗っている。うちの同僚も二人、クリプトンに乗っているのがいる。そしてその二人ともが、青いクリプトンに乗っている(ちなみに同僚は全部で十人ぐらい)。
だから同僚のバイクと混同しないように、という理由でも、赤を選びたいと言うのがあった。

とはいえあとから聞いた話で、クリプトンにも本物と偽物(?)があるらしく、同僚のクリプトンは安い偽物のほうらしい。このシールが、本物の証拠なんだって。ヤマハの本物の、もっと大きなバイクに乗っている同僚が教えてくれた。

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…なんて言い訳してみても、配属先に早速ルージュで通ったら、同僚に
「バイクも赤、シャツも赤、靴も赤だね」
とからかわれてしまったけれど。そしてそういう同僚は青いバイク(クリプトン)に青いシャツ、そして青いサンダルで決めていた。兄弟か!

そしてその同僚がぽつりという。
「ふーん、JICAは新しいバイクはくれるのに、どうしてヘルメットはこんなにボロいの?」
あーぁ、言われてるよ。しーらない。



ところで、そもそもルージュはワガでのバイク研修のときに、ルージュが何台かある中で、何が決め手だったか忘れたけど、とにかくどこかしらを見て四台ぐらいあったルージュの中から選んだ。そして無事にバイク研修を終えて、ゾルゴに届けられた。
初めに「バスに乗ってきた」と書いたけれど、こちらではバイクを都市間移動させるとき、大型のバスの、座席の下の荷物入れに詰めて運ぶ。バス会社やサイズによっては上に乗っけるんだけれど。ルージュの場合、大型バスの荷物入れに詰められてきた。そしてそれを駅まで受け取りに行った。
荷物が多ければ送れるかも、と言うことだったので、バス停に通うことになるかもしれないなぁと思って待っていたら、バス停に行ってから1時間ほどで、意外とあっけなくルージュが来た。


写真のようにして、そのままだと入らないのでカバーや前輪、ミラーを外した状態でやってきた。
長い時間を駅でぼーっと待つこともなく、目の前に現れたルージュにはしゃいだのもつかの間、なんだかどうも様子がおかしい…と思っていたら、「カバーはワガに忘れた。次のバスで送る」って、いったいどーなってんの??この杜撰さが、理解できない。
結局、本体が15時過ぎに着いて、カバーがついたのは18時ごろ。カバーを着けていざ走れる(帰れる)ようになったのは、19時前になってからだった。午後はずっとバス停に座って、待ちぼうけ。退屈だった。



まぁそんなトラブルはあれど、村に行くためのルージュ!着いてから三日目に早速、村に行くという同僚にくっついて村までルージュで行ってきた。
その道が、想像以上に大変だった。砂の道、狭い道、デコボコだらけ…しかも同僚はでかいヤマハの本物に乗っているし道に慣れてるしで割とスピードを出していて、置いてかれそうになる。しかも、JICAシールついているし。ルージュにはJICAシールがついてない。なんか色々、負けているよね…
そんなことを思いながら何度か滑ってこけそうになりながら、それでも何とか片道18km程の村までの道のりを往復した。

しかし途中で、なんか変だと思ったんだよね。うんやっぱり、いきなり壊れたみたい。走行距離メーターが101kmで止まってしまった。走れど走れど、メーターは動かない。てことで水曜に受け取り、金曜に早速壊れ、土曜にいきなり修理としゃれこんだ結果、

「これはメーターの部分を全部変えなきゃ駄目だ。パーツが無いから今は修理できない。来週また来てくれ。」


…ということで、修理できて、また順調に走れるようになったのは火曜日のこと。



修理中のルージュ。高校時代の英語の教師の言葉を借りれば、
「脳天を外科手術」している最中。

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てゆうか隣で修理中のバイク、生々しい。

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そんなこんなで修理が完了し、またゼロからのスタート。

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なんだか、前途多難な愛車です…


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拾いの美学再び


暫く前に書いたブログで、インド哲学を学んで実践している木村昭平という人の『拾いの美学』という本を紹介したことがある。同じブログで『日本辺境論』が面白くないと書いたけれど、最近、後半を読んだら割と面白かった。そういう見方もある、ぐらいの気持ちでいれば楽しく読める本だろうと思う。


ブルキナに遊びに来た人にゾルゴの市場を見せたとき、ブルキナべの友人にも一人、ついてきてもらった。その兄と主都のワガドゥグで知り合って、それがきっかけで弟とも知り合いになり、彼もゾルゴで働いているので、時々ご飯を一緒に食べたりする。
その兄のほうが、他の同期隊員の中でも「めんどくさい」だとか「自分勝手」だとか「ヨーロッパ(オランダ)かぶれしている」など、割と評判がよくない。そしてはっきり言って、弟のほうもやはり兄弟なもので、兄に似ているところが強く、なかなかに面倒くさい。兄よりも付き合いやすい気はするけれど、それでも、どうも関わりにくいところがある。そう思っていたところ、その弟と一緒にマルシェまで歩いた人もそれを感じたみたいで、「悪い人じゃないんだけど…」と苦笑い。扱いに困った様子。


その数日前に、友達のうちで何人か集まって話をしていたとき、そのうちの一人が半年前の研修のときに聞いた講義の話をして
「自分の嫌いな人だから、自分とは合わない人だからと関係を自分からきってしまうのはもったいない。いつ、どのような形でその人との関係が役に立つかは分からないのだから。」
と言っていた。私も参加した研修だったから、もうしばらく前に聞いた話だなぁと思いながら、その時はぼんやりと思い出しながらきいていた。確かに言っていた。都会から農村に嫁いだ人の、その慣れない文化の中で奮闘した足跡だった。



私は今、宝の山の中に居るから、そんな中でまだ焦って必死に宝をかき集める必要はない。落ち着いて一つ一つ、そして拾えるだけの量の宝を拾えばいいだけだ。むしろ欲を出せば失敗するかもしれない。
これも、出発前にとある神社で引いたおみくじの受け売りだ。

そうやっていろんなことを思い出してね、逆に好き嫌いをしてあの宝は欲しいけれどもあの宝は要らない、というのももったいない話だと思った。『拾いの美学』の著者も言っていたけれど、今の自分から見た価値で判断して拾う拾わないを決めていては、好い拾いものはできない。見た目に騙されているかもしれないし、意味のないようなものでも後になってほしくなり、拾わなかったことを後悔するかもしれない(どちらにしろそういう打算で拾っていては好い拾いものはできない、と著者は言うのだが)。
人間関係においても同様じゃないかと、思う。バラモンではないので打算的なことを考えても全然いいと思う。なんにせよ、自分の目から見て勝手な価値判断をして取捨選択をするのは賢い行動ではなさそうだ。
そしてゴミを拾うという行動にしても、案外、捨てるという目的を持って拾うことはないのかもしれない、と考えている。そういう概念から抜け出して、とにかくそこにあるから拾う、という、そこに山があるから登るに迫るぐらいの強迫観念?に突き動かされて拾っていけば、何か変わるかもしれない、となんとなく漠然と考えてみた。根拠は薄い。そんなふうに考えたらおもしろいかもなぁーってぐらいのもの。



とはいえ、家をゴミ屋敷にするつもりは毛頭ない。隣に住んでいる同僚たちも起こるだろう。
ブルキナに来て、道に沢山ゴミが落ちているのを見る。それを拾って、道をきれいにしたいと思う。多分、ほとんどのブルキナ協力隊員がゴミをきれいに拾ってしまいたいと考えているだろう。だけど、その後のゴミはどうすればいいのか。有毒ガスが出るからビニールは燃やしちゃだめ、でも自然には返らない…
「拾ったところでさ、どうするつもりよ?」
プラスチックゴミたちがこちらを見て嘲笑っている。それが怖くて、この手が伸ばせない。

一ヶ月ぶりの任地


一ヶ月振りの任地は。

UNICEFの研修、活動見学そしてバイク研修と。4週間も任地をほったらかしていた。
そして久しぶりにゾルゴに戻ってきたら。


相変わらず、道ばたで赤ちゃんを抱いているおばちゃん。フルーツが陳列してあるテーブル。最近できたクリーニング屋さんの前を通って。子どもたちがいつも遊んでいる広場の横を通り過ぎる。そして、門の前で待っているガルディアン。隣人に、「この日に帰る」と言っていたので、そわそわして待っていた様子。家に帰るといつも投げかけてくれるセリフ「Bonne arrivé!」をこの日も嬉しそうに口にし、私が肩に背負っていた大きな灰色のバッグを担いでくれる。隣に住んでいる同僚も「一ヶ月も何していたの?!」と歓迎してくれた。そしてその先に待っている、一人暮らしの我が家は…


家はそのまんまあるんだけれど、その周囲の景色が全然変わっていた。
家を出る前はあんなに青青と元気そうに生えていた雑草たちが、バイタリティを失って砂の色に同化しそうなほど。ワガ程ではないけれど、やはり乾期は噂どおりに植物たちの生命力を奪って行く。まだ乾期も始まったばかりだから、と思っていたけれど、それでも雨が降らなければ植物たちにはこんなにもつらいものらしい。

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そして。火が放たれた跡が…これの目的は詳しくは知らないが、雑草たちが潤いを失って燃えやすくなったところを狙ったと見える。砂、枯れ草、そして燃えカスの、なんと息苦しい色に染まってしまっていることか!

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一ヶ月放置していた家の中も、ひどいことになっていた。大学の一人暮らしの部屋を一ヶ月も放置していても、せいぜい埃が積もっているだけでそんなに言うほどは汚れなかったものだけれど、やっぱりここは違った。サロンは未だいいけれど、その他の部屋はもう酷い有様。窓に積った砂、至る所にクモの巣ができていて、白蟻の巣も二つ、大きいのが完成していた。そして極めつけは、目下乾燥室にしようと目論んでいる部屋。最初は寝室にしようとしていたが、壁に穴が開いていて、未だ直してないのでこの部屋はほとんど使っていない。この部屋の扉を開けた途端、目に飛び込んできたのは床に散らばる沢山の黒い物体…

小さいのは、ネズミの糞っぽい。そして大きいのは。ネズミの、死骸。3,4体はあった。
後日、生きてるやつらを全部で4匹ほど見つけました。割と、可愛いかおしてる気がする。

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てことで家にお昼すぎに帰ってきて、2時間かけて掃除。けどたった2時間じゃ、全然足りない。時間があるときに、いつか家じゅう磨き上げたいと思う。なかなか、そんな時間と心の余裕がないものだけれど。
そして一カ月ぶりに水を200リットル買って、夜はろうそくを灯す生活。ベッドもない。一ヶ月はそういう生活から離れていたものだけれど、意外と体が拒否しないものだ。
ただ、寝心地だけはちょっと違った。堅い寝床がすこし痛い。

夜は結構冷えるようになってきた。お昼も寒くなったらいいのになぁと、切実に願う。

『好き』と言える無邪気とその罪


例えば、「この人いいな、タイプだな」と思っている女性と二人っきりでカフェに行く約束を取り付ける。金曜日は次の日のことばかりを想像して眠れぬ夜を過ごし、土曜の昼に少し遅れて小走りに来るその人を見つけ、胸を躍らせながらその人が近づいてくるのをずっと見つめている。全然待っていませんよと言いながらカフェまで並んで歩き、カフェに入れば逸る気持ちを少し抑えながら、慎重に会話を進めていく。そうして暫くお喋りをしたところで、誘導するように相手のほうから聞いてくる。

「好きな人はいるの?」

その質問に、目の前の「あなたが好きです」と言うことができたら…でも実際には、「まだそんな話はしてないけれど、日本にいいなと思う女性がいて…」なんて応えている。
そういうときの自分は本当に勇気だとか度胸だとか無いなぁと思う。もしそれを言ってしまったら、それ以降の関係が大きくバランスを崩すことに、不安が拭えない。共通の友達や知り合いがいればいるほど、その不安は大きくなる。




一方でそんな私とは対照的、という人たちもいる。
とある友人(日本人)がブルキナべの同僚から告白された。おかげで、友人は荒れた。私がその友人にタイミング良く電話したのは全くの偶然だったけれど、明らかに沈んだ声が受話器から聞こえてきて正直、困った。朝7時、一カ月ぶりに出勤した配属先の事務所の戸をあけながら、どうしたの、と言って話を聞いた。


それは、色恋沙汰と言うには余りにお粗末な筋書きのように、私には思えた。
日本の価値観でいえばそれは不誠実、あるいは不貞という言葉が当てはまるように思われる。が、一人の男性が二人以上の妻を持つことが今も文化のひとつとして残っているブルキナにおいて、妻と子どもを一人ずつ持つ男性が別の女性に言いよることは、考えてみれば異常なことではないだろう。だから「好きだ」だとか「妻になってくれ」だとか、ためらいなしに口にすることができるのかもしれない。おそらく、女性もネガティブな返事をすることは少ないのだろうと想像する。強制婚だとか一夫多妻制だとか、そういう文化の存在を知ればむしろ、女性が男性のアプローチを断るのは難しい、と言うのが事実なのではないかとさえ思えてくる。
が、その無邪気さに私が苛立ちを覚えるのは、そういう言葉に対して首を縦に振らない女性に対しては仕打ち、めいたことをするからだ。夕方突然、問答無用で電話で呼び出し、そしてそこには彼の友人たちがいる。仏語を学び始めて半年ほどの彼女の前で、今週末の選挙の話など、小難しい政治の話題を繰り広げる。暫く、理解しようと必死になり、黙っている彼女に向って「君はどうして喋らないのか」と怒鳴る。そのやり方が子供じみているようじゃないか、プライドのせいなのか、自分の思い通りにならない女性に対しては簡単にそういう態度に出る。自分は悪くないと言わんばかりに。
彼が私の友人に対して、これまで同僚の中でも丁寧に対応してくれていたという事実。それが、下心ゆえだったとしても、悪いことではないと思う。が、同僚としてこれまでの関係を作った後に、自分勝手にその関係を壊して鬱憤を晴らしているようで、私は気に入らない。ごめん、私はその同僚とそんなに親しくなったわけではないので、疑うことも憎むことも割と簡単にできてしまう。


私は、友人のその悩みを一人で受け止めきることができず、別の友人にも電話した。全く関係のない人間に相談した分、ドライと言うか冷静な言葉が返ってきた。曰く、思わせぶりな言動があったのではないかと。それは確かに、考えられる。同僚にそう受け止められるような言動を図らずもしてしまった可能性は大いにあると思う。考え方、感じ方のずれが、ただでさえ大いにある。現地に来て半年で理解できるようなものじゃない。相手が奥さん子持ちであるということで油断した部分はあったのではないかと想像する。それがなかったとしても、勘違いしやすい男って人種だ。
が、それでも許せないと思うのはやはり、振られた後の彼の振る舞いだ。同僚だからこそ、これからの活動も大事に思って友人はこの関係を修復したいと思っている。が、もしかしたら最終的に、上司らに相談して無理やり解決を図るという方向に流れるのかもしれない。そこまで突っ込んだことに関しては、私たちには関係の無い、口を出す資格のないことかもしれないが。

せめて彼に、告白する勇気までしか無かったら、と思ってみる。私から見れば大胆にも、そして子供じみた態度をとることができてしまうほどの図太さを持つ彼だ。



さて果たして、こういう世界の話をしていればよく話題になる異文化理解、相手のことを理解するための異文化理解はここでも必要だろうか。考え方の違いがあると言う話はしたけれど、ブルキナに来てブルキナべと一緒に暮らし、ともに仕事をしていくためには、相手を理解することは確かに大事だろう。
が、それが日本に生まれ、日本に育ったことを否定するほどになるのであれば、ごめんこうむるね、と言ったところ。それは洗脳と言うものになってきて、理解の範疇を超える。異文化と言う相対性を失い、その理解できない対象をそれでも理解しようと努める中で起きる摩擦にこそあるはずの価値をぞんざいに扱う。
大げさなことを書いている、と思うかもしれない。が、こう反論したくなるようなレベルの「理解」を求める人たちだっている。そして今回のことに関係しているからこそ、ここにまとめて書く。



そして私はここで、悪意に依る偏見に満ちた考えを披露する。
少し前から思っていたが、どうもこちらの人々は色々な場面で、子どもっぽいと思わせる振る舞いが目立つように思う。他人の失敗や不幸を簡単に笑うこと、音楽も特にそのビデオでは三流コメディ以下のものが繰り広げられて、それを見て無邪気に笑う。あの、カラオケのときに大きなテレビに映る古い映像を思い起こさせる。加えて音楽自体もしばしば、単調だと思う。まだ、隣国コートジボワールの音楽はそういう意味で子供じみてないと思う。アメリカっぽいポップスというジャンルがあるくらいのものだし。こちらの人たちが好むドラマや映画を見ても、話の筋が単純で人物描写も平坦で、特にビジュアル的なアピールをよく好む。私とは趣味が合わないが、アクションものなんか、大好きみたいだ。そして、今回の同僚の彼の振る舞い。私の同僚にもすこぶる子どもっぽい、本当に大人同士が繰り広げているのかと疑いたくなるような会話、ジョークをいつも飛ばす人がいる。そしていつでも、男だと思えば女は要らないか、女だと思えば男を作れと言っては笑っている人々だ。げんなりする。毎回毎回ご飯を食べに行くたびに、「日本の彼女は?(面倒くさいので日本にいるということにしている。が、それでも以下の文言が続く)ブルキナでも彼女作れば?それで日本に連れて帰って。それか、こっちなら二人ともと結婚できるよ。可愛い子、紹介しようか?」


さて、今回本題にしたことは、その後の経過など、もう何も書かないだろう。途中にも書いたけれど、この件ははっきり言って私にとっては他人事であり、余計な口出しであるわけだ。が、色々といい機会だと思ったので書いた。ただここで、私も異文化理解という点では落第生だと思う。ブルキナに居て、日本で暮らすよりも刺激は少ない。が、ストレスは本当に多い。理解できること、できないこと、見ない振りすること、笑って済ませること…誤魔化し方はいろいろだ。そんな中で思うのは、異文化理解なんかできなくったって、大丈夫、生きて行ける。むしろ理解しようと努めることに落とし穴があることだって珍しくない。そう思い込ませる。

トライアングル



任地に隊員が複数いる地域も、珍しくないものだ。ブルキナではむしろ、複数の隊員がいる地域のほうが多い。私は任地に一人。それが心細いなと思うことも、時々ある。活動見学のときに、隊員が複数いる地域を沢山見て、楽しそうでうらやましいと今は思う。夜は家に一人で籠っていることが多い、というかほぼ毎日そういう状態、という私。

二人任地の同期隊員と、ちょっと話をしていた。ひょんなことから話が、同じ任地に居るもう一人の隊員との関係とかになった。

「二人ってのがなんかね。三人以上いたら、一人と関係がうまく行ってなくても、もう一人いるじゃん。もう一人と喋って、安心することができると思うし、相談もできるんだけれど…」

そこの地域の人間関係が微妙なのは知っていた。二人とも悩んでいたり、もどかしい思いをどこかでしているみたい。
その、「三人以上いたら」というのを聞いて、ちょっと前によんだ夏目漱石の「それから」を思い出した。三角関係を題材にした小説だった。解説に(解説を読まないと話のテーマをちゃんと理解できないもので)、人間関係は三角関係が始まりだと書いてあった。妙に納得させられた。二人だけだと、発展しないものだと。好きだとか嫉妬だとかの感情は二人からでは、生まれない。


昔読んだ本に載ってたジョークでこういうものがある。アダムとイブがいて、イブがアダムの浮気を疑う。「何を言うんだイブ、この世には君と僕の二人だけだよ。」その日の夜アダムが寝た後、イブはアダムの肋骨が減ってないか確かめた。

本来は笑うところ?私は聖書に首ったけでもないし、そこまで面白いジョークだとは思わないのだけれど。でもこのジョークは、三人目の人物が登場することで新たな感情が生まれることをほのめかす。

確かに、二人だけだとそれでは関係というものは成立しないのかもしれない。世界がそれで完結してしまうだろう。そこに、衝突しあうものはない。一人しかいなければ自他は生まれないが、二人でも自他はなさそうだ。


3と言うのは安定を表す数字だと、タロットカードの本か何かに書いてあった気がする。どうしてそういうことになったのかは、読んだ気がするけれど忘れた。が、例えばイスの足は3本で一番安定する。二本では倒れてしまうし、四本以上あるとすべての足が平面上にあり、イスが安定しているのは難しい。三点なら、その三点で安定する平面が常に描ける。数学者ではないのでここら辺は微妙な表現で申し訳ない。言いたいことは分ってもらえると思う。それに、図形が描けるのも三角形からだ。点が二つしか無ければ、線しか作図できない。どれだけ距離が離れているかという問題はあれど、その関係は固定されている。点が三つになったときから、その関係に相対性や変化が出てくる。


人間関係も同じだ。二人しかいなければ、その関係に変化はない。いつまでも、二人を結ぶ直線が描けるだけだ。だけど、一人増えることで三角形が描けるようになって、離れたり近づいたり、三角形にも鋭角や鈍角があるように、それぞれの点の関係が大きく広がるようになる。そして、それぞれの点は安定することができるようになる。同じ平面を共有することができる。
三角関係と言えばぱっと聞いて浮気だとか不倫だとか想像してしまっていいイメージではないかもしれない。だけどそれは人間関係の底にあるものなのかもしれない。人間の持つ複雑な感情は三角関係あってこそではないかと思う。

明日、16日はイスラム教のお祭り、タバスキ。羊を殺して、神に供えるという意味の儀式だと聞いた。それと関係あるかは知らないけれど、アベルとカインの兄弟の話を彷彿とさせる。あの話も三角関係だ。


三という数が世界を成立させているのかもしれない、と思った。無からではなく絶対からではなく、関係が成立するようになる三から、世界は始まるのではないだろうか。すべての関係は突き詰めていけば、三角関係にまで単純化できるのでは、と想像してみる。

思い出してバイク講習の話。



標識ばかり覚える講習も全部で7日あり(そのうち1日欠席)、9日の午前中に最後の講義を受けた後に、免許センター(のようなとこ??)で試験を受け、標識や優先関係に関してはOK、てことになった。

で、10日から晴れて実際にバイクに乗っての訓練が受けられることとなった。高級ホテルが立ち並ぶ、その裏にあるグランドで実際に自分たちが任地で乗ることになるバイクを運転して訓練する。
水曜日は野球部がランニングをするようにただひたすらグランドをぐるぐる回ったり、8の字に小回りをする訓練をやった。
納得いかないのはこれが訓練だと思っていたら、試験でもあった点。運転の技術を教習所の先生たちが見て判断して、点数をつけていた。練習なんだから、どこまでだったらやっていいかとかどこから先をやればこけてしまうんだとか、そういうことを確かめたかったけれど、もし先生の前でこけでもしたら、点数を大きく引かれて、場合によってはバイクの貸与がされないかも?という事態。私は、今のうちにこけておくのも練習だよ、って思う。

そして木曜日も午前中は同じようなことをやって、それから車の通りの少ない道を少しだけ走って、おしまい。
午後になって、町中から15kmほど離れた村までみんなでドライブで往復。やっぱりツーリングは楽しいよね。風景がどんどん移り変わっていく様子と、村の人たちがみんな物珍しそうな顔してこっちを見るのを眺めていた。

だけど一体、この国の埃っぽさって何なんだろう?村まで往復のドライブが終わってみれば、みんな埃だらけで服の色が変わってた!!赤土まみれで、特に白い服を着てた人は真っ赤になってた。バイクも砂だらけ、乾期になったしこれからは毎日黄砂のような中でバイクに乗るのかと思うと、ちょっと嫌だ。と思ったりする。目が結膜炎になる人もいるらしいってぐらい。


ただね、セミオートって言うのは確かにクラッチ無くて操作面だけ見れば簡単なんだけれど、なんか常に半クラッチみたいな中途半端な感覚で、それにアクセルが狙ったタイミングで来ずに、それでついついスロットルをひねり過ぎて、アクセルの量を自分でうまく調整できなかったりと、ストレスが色々とある。あと、やっぱニーグリップできないのが落ち着かなかったりする。膝がさびしい(笑)。で、シートの後ろのほうに座って、シートの前のほうを膝で挟んでみようとしたりして。虚しい(笑)。

10台あまりあるバイクの中から自分のバイクを決めるときには、くじで1番最初に選べることになって、新車のYAMAHA Crypton rougeを手に入れたし、これでやっと村に行くことができる!!
まぁ、これからの1年半愛車になってくれるCryptonのことは、また今度のブログで紹介しようかな。

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