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白石さん



ニカラグアの同期隊員から、絵葉書が届いた。

漠然と「中南米」「スペイン語圏」とは思いながら、結局今になってもはっきりとその場所も分ってない国から。自分の知らない、不思議な風景がいくつか映った赤い絵葉書。

裏返して文句を読んでみれば、「KTC(駒ヶ根訓練所)が懐かしい」だって。そんなこと、はっきり書いちゃうかよ。こっちだって、懐かしがってるよ。もう4ヶ月も前の話だって、だけどもっと前のことのようにこの4ヶ月は刺激が強すぎた。

「毎日爪きれいにしてる?」なんて文も踊ってる。
ちょうど絵葉書を受け取った丁度前日に、ジェルネイルははがしちゃった。と同時に長かった爪も久しぶりに短くそろえて、むしろ深爪気味。自分の右手をかざしてその指先を眺めながら、自分の指じゃないみたいだ。ちょっと不思議な感じ。とはいえ、ジェルはなくてもちゃんと磨いているけれど。

この手で今週と来週、ほんの少しだけれど土いじりをする予定だ。そのために爪を切ったと言えば、気合いが入ってると思ってもらえるだろうか。

白石さんという、懐かしい人の名前を聞いた。群馬の山奥で農業やってるおっさんだ。私の爪を見て、
「こんなのがうちに来たら、やる気があるのか疑う」
だとか、
「こんなのには畑を触らせたくない」
だとか、
とにかく言いたい放題言っていた人だ。私、別に農業しに群馬に行ったわけじゃなかったのに。

今更あの人にこの手を見せたってしょうがないけれどね。見せようとも思わないし、「やる気あるね!」って言われたいわけでもないけれど。
ブルキナに来てからも、白石さんほどはっきりと拒否反応を示す人はいない。

むしろ今、キラキラ光ってない私の爪をみてみんながどんな顔をするのか、ちょっと楽しみ。
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協力隊らしい生活


ブログで自分の生活の話を時々していると、
「協力隊らしい生活してるね」
なんて言われることがある。

そうかもしれないなぁと思う。協力隊募集のポスターも、そのイメージを助長している気もするし。赤い大地に、たくさんの黒い子どもたちに囲まれて微笑んでいる、みたいな。そういうイメ-ジが世間的に受けるのか、そのイメージで人が集まるのか知らないけれど、確かにそれが「典型的な…」と思う協力隊のイメージなのかもしれない。だからリゾートに建てた別荘みたいな家だったり、電気や水道がばっちり来ててご飯もおいしいところに行った人の中には、後ろめたい思いをしている人もいるのかもしれない。

こちとら、そもそも国自体が世界最高レベルの最貧国。その田舎町に一人で住んで、おまけに水なし電気なし生活を続けているとくれば、まぁ文句なしの典型的な協力隊のイメージなのかもしれない。土は赤いし、子どもは黒いし。

ワガ(主都)に久しぶりに行ってポー(ガーナ国境近く)に遊びに行って、ゾルゴはやっぱり田舎だと思った。村でこそないけれどね。人がものすごくいい。外国人に慣れてない。
来たばかりの頃、一人で買い物に行く(あるいは行った、という事後報告)と言うと、一人じゃぼられる、ついて行ってやるから、と同僚に言われたものだけれど、そんなことを考えるのは同僚たち教育を受けた側の発想で、正直言ってこっちの地元の人は、私がお金を持ってるからふんだくってやろうだとか、多分そもそもそういう発想からない。お金を落としていく観光客なんていないし。だから野菜も何にも言わなくてもびっくりするぐらい安いし、外国人価格を言われるとかそういう悩みは抱えたことがない。



それから、虫ともたまーに格闘してる。いるのは常にいるけど。小さな虫は夜毎日出てきてライトの周りをうろつくし、虫がいるのに気がつかずにキャベツを炒めたことあるし、お米もとぎながら虫とか埃とか石を取り除くし、その他家の中にはクモから蟻から白蟻から蠅から蚊から名前の分んないやつまで、本当にいろんな虫がいる。虫のカテゴリーには入らないと思うけれど、サソリまで出たのはいつかのブログで紹介した。あと、トカゲがいつもうろちょろしてる。



ブルキナに来てほしいと思うもの。

まぁ贅沢をいえば日本からすべてを輸入したい気分に駆られたりするけれど。
どうしても我慢できなくなって、頼んで日本やフランスから送ってもらったもの。本当にどうしてもこれがなきゃ、って思ったもの。他にも頼んだものは沢山あるけれど、本当に日々生活する上でどうしても欲しいと思って頼んだものは以下の二つ。

ボールペンと自転車チェーンの油。

他のものは日本から自分で持ってきたものもあると思うけれど。
この二つはこちらにもあるだろうと思って、買えばいいと思っていて、実際に最初はこっちのものを使ったりするんだけれど。なんかこう、こっちにあるものじゃ我慢できない。ストレスが大いにたまることがある。

ボールペンは、そもそもの書き味が気に入らなかったり、インクがでなくなることもよくあるし、それをブルキナベに持たせた日には、インクが出るまで無理やり紙にペン先を押しつける。ノートにものすごい跡がつくから私はそれが嫌。


あと、頼んだけど来ないもの。包丁研ぎと、…まいっか。

暫く前に、水を買って貯めるバケツの写真をブログに載せたら、その写真を使いたいという話が来た。9月1日付のブログだったかな。あれ、たまーに水売るお兄さんが来るの忘れたりして、いろいろとめんどくさい。でも断水も多いところって聞いたから、水道が来てからも重宝すると思う。そういえば、ゾルゴ(任地)は私が主都に居る間に強風が吹いたらしく、ONEA(水道供給会社)の、柱の上20メートルぐらい(?)のところに据え付けてある水のタンクが「落ちた」ってみんな言ってた。確かに、あったはずのタンクが見えないんだよなぁ。

ちなみにあのブログを書いた時は自分の生活は恵まれてるほうだろうと思っていたけれど、今はもう思ってない。


特に、とりとめもなく書いてしまった。

『「人間嫌い」のルール』



最近巨匠だとか、そこまで行かなくてもプロの書いた文章をたくさん読んでいると、自分の書いた文章はどうしようもなくつまらないものに思えてしまってしょうがない。私は素人だし考えなしに思いついたさきから書いてるだけだからそれで当たり前なのだが、それでも悔しかったりする。




一度勘違いされたことに関して、今更そういうつもりじゃなかっただとか、訂正するつもりはない。だけど、もしもそのために『協調性がある』だとか評価されるのであれば、それはすごく癪だ。

最近、自分の思ったままを口にするのは難しい。人と会話をするとき、人数が増えれば増えるほどある種の圧力を感じる。自分の言いたいことよりも、その場の雰囲気に求められている言葉を発し続けなければいけないと感じさせる圧力。 
気のせいだろうか、私が小学生のときにはそういうものを感じてなかった。中学高校あたりから、思ったことをそのまま口にすると
「空気の読めないやつ…」
ということになり出した(気がする)。年齢のせい、大人になったということだとは思っているが、実はもう一つ、原因の可能性に目星をつけている。
ネット社会。私はネット社会の反映こそが言いたいことを言えない現実社会をも作り出したのではないかと、ひそかに疑っている。

ネット社会の象徴的なものと言えば、記号化された人格とそう言った個人による表現。カキコミ板だったり、私がこうして書いているブログもその一つだと思う。ネットが絡んだ事件が頻発するようになり、そのときに事件の背景としてワイドショーなどで匿名性だとか情報化された個人というものがキーワードとして解説される。そういう乱れたネットの世界をより居心地良くするためにネチケットなどのネット上でのマナーが作られて呼び掛けられたり、場合によっては(自主)規制がかかったりもする。自主規制というのは作家などのプロの物書きには昔からあった悩みなのかもしれないが、インターネットを通してプロ以外の、一般の人々が不特定多数に向けて表現を始め、それと同時に一般の人々が不特定多数を相手に書くときのことを意識した文章を書くようになったのではないだろうか。そして多くの人々(とりわけ若い世代)がその影響で、現実社会でも当たり障りのないことしかしない、言わない、ストレスを最小限に抑えた「空気を読む」人間関係を作り出しているのだと、私は考えている。
予定調和な会話しかしない、毎回同じ会話を繰り返す、偶然の出会いから生まれるはずの、どんなふうに展開されるか未知数という対話のダイナミクスがない。
例えばモノクロフィルムを見ているような、あの会話運びや言葉遣い、自由な会話から生まれてくる沢山の表情がうらやましいと、私は思う。ニコニコしていることしか知らない現代人よ。もっといろんな感情を表現していてほしい。

少なくとも、言いたいことを言う、という原則は自分に押し通したい。
期待される言葉を発していい人だと誤解されるよりも、思ったままを口にして嫌な人だとか腹が立つ人だとか、正直に自分を受け入れてもらえるほうが自分は好きだ。



最近、ブルキナべも「婉曲表現が多いよね、はっきり言ってくれたらいいのに(笑)」って、同期隊員と話したりした。私はあんまり感じてないんだけれど(気付いてないだけ??)。
なんにせよ人を気遣うのはいいけれど、そのために自分がストレスを感じるのなら逆効果だと思う。うまく相手に伝わらず、もどかしい思いをしたり。その原因が言葉が見つからないというところにあるのではなく、どう表現すれば相手が傷つかないかということばかりを気にしての結果なら、アホらしい。


例えば物をあげるときに、自分の気持ちをはっきりと言葉にせずに阿吽の呼吸みたいなものに頼って、あげたものをどう使うかを勝手に期待しちゃいけないと思う。言葉にせずに勝手に「あれは、こういうふうに(その人自身が)使ってくれるだろう」とか期待して、もし私が期待された使い方をしなかったり、それを別の人に渡したときに裏切られたと思うのは、もううんざりしてしょうがない。そう思うなら初めから私が人に渡したりしないように「これはあなたが自分で使ってね」と念を押しておかなければだめだと思う。勝手に自分の中で価値判断して期待して、それとずれてるからと文句を言われても、正直な話、迷惑。
(ちなみに、使い方を指定されて渡されるのもある程度迷惑だったりする。)


それが自分の価値観であってみんなそれぞれの価値観を持っているはずだと思うから、みんなもナチュラルに適当にやってればいいと私は思っているけれど、なかなかどうして、全体の雰囲気だとか相手の気持ちだとかばかりを気にしてばかりいる人が多いよなぁと思う。本音とホンネの話もそうだったけれど、『アイテノキモチ』というのもある程度、定型があるものだと感じて窮屈な思いをすることが多い。

多くの人が、喜んで承認するであろうことは、自分がおよそ他人に親切を示さなくても済むのなら、他人も自分に親切にしてくれなくてもよい、ということである。
(『人権の形而上学の基礎づけ』中島道義訳)

といったカントの言葉が好きだ。でもオルテガも好きだ。ドミトリーにはカントもオルテガはないけれど。。。


影響を与えられる関係


人の行動を変えるのは、難しいなと思う。

意識して誰かの行動を変えようとして動いてみたところで、その人が自分の思った通りに行動するかどうかは分らない。馬を水飲み場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。
まだ活動を本格的に始める前だけど、そう思った。

週末、本を読んでいるところに同僚Aが来て(おおよそ毎回、最後の2ページ、もうすぐで結末!とか、いいとこで訪ねてくるんだこれが)、
おしゃべりをしていたら、
「ところで掃除はしてんの??」と言いだす。突然なんだとか思いながら話を聞いていると、
「床を水拭きしなきゃ、きれいにはなんないよ」
って、なにを言い出すのかと思えば。

はいはぃ、と返事をしておいたが、頭の中では(日本語で)猛反論。
はっきりいって余計な御世話だ、に始まって、うちは十分きれいだ、人のうちを気にする前に自分ちの掃除をしろ、自分ちの蠅を駆除しろ、坊やをしつけて床に落とした飴玉を平気で口に運ばせないようにしろ、と彼が帰ってからも暫く繰り返してた。

最近私が同僚Aのうちに寄り付かない理由の一つは、間違いなく蠅だ。あそこに行って数え切れないほどの数の蠅にたかられるのは嫌で嫌でしょうがない。ブルキナはどこもかしこも蠅だらけだけれど、同僚Aのうちは特に多いと思う。
はっきりいって不潔だと思っているのだ。蠅は不潔の証拠。てゆうか象徴。だから、我慢できない。が、余計なお世話だろうとおもうから言わないでいる。
ちなみに、夜は外食もほとんどしない。蚊に食われるだけだから。

さて床に水を流せば十分に清潔になるのかはおいといて、私だって人に「こうしたほうがいいよ」などと言われたらイラッとくる。お前がやれよって思ったりもする。なかなか、「そうだね、改めようか」と首を縦に振る気にはなれない。
こっちで受けた衛生啓発活動の研修のときにも、村人たちが自分たちの生活における問題点を認めようとしない、あるいは改善行動に移りづらいという話はあった。そうだろうなと思う。私だって、突然言われたって「はいそうですか」とは行かない。初めからその人を見習おうだとかその人に教えを乞おうと言うのでなければ。



人を動かすとか、いままでそういう視点で考えたことはなかった。



のどかな朝。


一週間ほど休みを取っています。

実際には出張扱いで書類も書いたんだけれど、一週間が中途半端で休暇扱いにするほどではなかったのと、同僚の細かい勘違いのせいであって、実質休暇です。

遊んできた様子を、友達のブログをもって紹介しようと思います。
なんか面倒くさいのと、今の自分の文章がうまくないと思うのと。
何でもいっか。てことで友達のブログを紹介します。


さくら☆ブルキナファソ
http://sakurauno.exblog.jp/


まささん登場編
http://sakurauno.exblog.jp/12059895/

『24』をみて思う日本の内向性


数年前から日本でもあんなに流行っていたアメリカドラマ、24やプリズンブレイクをなぜか、こっちに来てからみたいと思ってる。同僚が見てるのを見つけて一緒に見て、はまりそう。24のシーズン7を少し見て、面白いと思った。

アフリカの仮想の国で戦争が起こっていて、そこで採れるダイヤモンドを得るためにアメリカの企業がそこにお金を出している、という設定だった。(みんな知ってるか。)そしてこれをみて思ったのは、アメリカのドラマがなんて世界をみて作られているんだということ。アメリカの、今もずっとあるんだろうけれど、世界の秩序を守っていくのはアメリカなんだという正義感が垣間見える気がする。全部見たわけではないからちょっと違うのかもしれないけれど、少なくとも世界を常に見て意識していることは分る。

日本でも流行ってるらしい、私も人に紹介してもらって知ったマイケル・サンデルの正義の話にしても、日本人がどれだけ親身になって考えられる学問なんだろうか。あのドラマを見て思ったのは、常にアメリカは正義を意識している。それも、世界というスケールまで持って。そして、形而上学的な範囲に収まらず。日本のドラマが、一体どれだけ世界スケールの正義を意識して作られているだろう。そういうのが日本人の好みじゃないのは分る。もっと繊細な感情だとか葛藤を描いたほうが、とか滅びの美学に近いものが日本人は好きだろうと思う。正義だとか、日本ではあんまり流行らないだろう。今の熱も、いずれすぐに廃れていくんだろう。

だからこそ、正義という学問がアメリカで一番人気になるほどにアメリカではメジャーでみんな考えていることだけれど、日本人はそこまで正義について考えることって好きじゃないだろう。少なくとも私の感覚からいえば、同じ正義という言葉を使って、でも日本人はアメリカ人の正義とは違うものを意識するんじゃないだろうか。それが悪いわけではないけれど、絶対の真理だとか従うべき道筋だとか、日本人にもそういうものがもうちょっとあってもいい気がする。
日本のドラマで、世界をこんな風に変えたい!とまっすぐに自分の考える正義を提示するようなものはあるだろうか。私は一つぐらいあってもいい気がする。正義なんてそれぞれのもの、なんてもの分りいい態度もいいけれど、どれだけ人と違って、どれだけ周りの人たちを傷つけたとしても貫くべき正義があるんだ!ってぐらいの、もっとストレートにぶつけてくるものがあるのもいいと思った。

同僚はフランス人のことを、「嫌いだ。黒人を見下してるから。多分、植民地時代の影響だろう」と言った。アメリカ人のことをはたしてどう思ってるかなんてのはまだよく分らない。ただ世界情勢を見わたせば、フランスとアメリカは第二次世界大戦は同じ陣営に居たし戦後は国連の中心、常任理事国だ。フランスも、日本以上に世界の中心に立って世界を動かしていくものとしての責任を感じている部分はあるんじゃないだろうかと想像している。まぁEUのこととかで苦労も多いんだろうけれど。

国際社会の中で日本の存在感のなさは、時々話題になる。
フランス語講座や海外観光案内もいいけれど、真似でもいいから24みたいなスケールの映像作品を作れば、変わるものはあると思う。


24、フランス語で見まくろうか。また英語が喋れなくなってしまう。。。


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