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人はいつ、どうやって奴隷になるか。


この3連休は色々なことを考えた。
3連休って書いたけれど、主に土曜日と日曜日。
特に土曜日。

私は将来にほとんどビジョンを描かないけれど、
自分が持つべき正義については考える。
自分を飾る言葉は特に持とうとしないけれど(自分らしさが言葉に縛られるのも嫌だし)、
自分の理想と思う世界の形については常々、修飾語を与えなきゃと思っている。


今日、家の近くのココイチに行って、漫画を読んだ。
カレー一杯で2時間強居て、ずっと漫画読んでるって一体、
ここを何の店だ!って店員はみんな思ったかもしれないけれど、
漫画おいている方が悪い。
私はそれ目的で今度から、通うことにしよう。
これからの週末はココイチで読書だ。


で、途中までで止まっていたストーリーの続きを読み始めた。
正直な話、みんなが読んでるからって理由で読み始め、
なんだかんだ言って私としてはギャグ漫画として楽しんでいた、
「ワンピース」という作品で今日初めて、
あ、この台詞いいな、好きだなと言うのに出会った。


一度話をそらすけれど、私は最近漫画なんて全然読まなくて、
前からそんなに読む方じゃないけれど、今は流行っているどの漫画のストーリーも知らない。
ストーリーを聞いても興味も湧かない。
漫画だけではなく、割と色んなものに対する興味が薄れて来ていると思う。

もう一つ話をそらしておくと、
みんなの間で流行っているもの、は好きではない。
という言い方をするのは誤解を招く。
漫画や、何にしろ大事なのは内容で、面白いかどうかで。
私が嫌いと思うのは、みんなが「それを好き」つまり「それを支持する」、
その考え方、哲学、思想を支持する、共感を覚える、というレベルになった時。
もっと典型的なのが、facebookで時々流れて来る、
「いいと思ったらシェア」みたいなヤツ。
完全に、マジョリティを形成して「主流はこの考え方だぞ、
こう思わなければいけないぞ」と価値観の押しつけをして来る。
漫画もただの面白い、面白くないだけの基準で流行ればいいものを、
流行っている漫画の価値観が押し付けがましく世間に触れ込まれるようになれば
私の反発を買うだけだ。
私が反発しようが世の中は関係ないと思うかもしれないけれど、
簡単に付和雷同してマジョリティの価値観を自分のものに簡単にできる日本人は、
こういう価値観の押し付けに対して弱く、いとも簡単に作られたマジョリティの側に付き、
思想なくマイノリティの迫害に動く。


・・・とここまで書いて、二つ目の話をそらしておくと、の積もりが
全く話それていないことに気付いてしまった。
私が今のところ、唯一好きになったワンピースの台詞、それは
「おれたちが敵か見方か・・・そんなの、お前が決めろ」
みたいな台詞。
メモとかした訳じゃないから、若干曖昧でごめん。

ワンピースは多分、今の日本でかなり影響力がある漫画だろう。
しかしここの台詞の部分は、ちゃんと伝わっているのだろうか??
よく読めば、この漫画は気を使って描かれているけれど
日本や世界を鏡のように映し出していて、現実離れしたフィクションではない。
魚人島編も、ヘイトスピーチする日本人たちとかぶるなぁ。
さっきの台詞も、日本人全員が胸を痛めなければいけない一言だと思う。


誰が敵で味方で、何が間違っていて正しいことなのか、
その答えを人に求めちゃいけないってことだ。
人の提出する答えに対して、無条件に受け入れてはいけない。
結論だけ人から得て、分かった気になっていては危ない。
どうやってその結論にたどり着いたのか、それが自分にとっても受け入れられる過程を経ているのか。
判断する基準を自分自身の中に持っている必要があると言うこと。

思うに、自分自身で悩むことの中にこそ、正義が潜むのではないだろうか。
結論ではなく、考える過程に正義がある。
人に聞けばとりあえずの答えは得られる。しかしそれが本当に正しい答えなのかどうか?
自分自身に検証する術が無くてはいけない。
それに、そもそも人に結論を尋ねてはいけない。グーグルにも聞いてはいけない。
人に答えを求めることは、死ぬことと同義だ。ロボットになると言うことだ。

考え、悩み続けることでしか正義は実現できない。
人に答えを求めたなら、そのときから私たちは自らを奴隷と規定することになる。


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労働に喜びを見いだす日本人。


昨日も書いた、先週のゴー宣道場にて、
「労働の価値を再発見する必要がある」と、切通理作氏からお話があった。

この一言自体は、自分の中でよく理解できる部分がある。
あれは夏にバイクで日本を旅していた時のこと。
伊賀上野を目指していた時に、曲がりくねった山道を、
田んぼや畑、そしてそこで働く人々を眺めながら走った。
新幹線からも田んぼが広がる日本の原風景、みたいなのは存分に楽しめるけれど、
新幹線から見るのと全く違う点は、田んぼのすぐ脇を通るとき、農家の人々が泥にまみれて汗を流して田んぼに向き合う姿を目の当たりにした部分だ。
そこには、ただ美しいと愛でるには農業の厳しさが全面に出過ぎていた。
もちろん、青々と天を向く稲の姿は美しい。生命力を感じるし、その生命力が自分たちの体や精神に精製されるということにも思いを馳せると、なお一層いとおしくなる。
しかし、その日本人の生命や魂の源たり得る米を作ると言う作業の厳しさを同時に刻むと言うことは、ただの感謝を超えた観念がわき上がって来る。

だからこそ私はその時に、伊賀上野出身の松尾芭蕉の感性の源を覗いた気分になったものだ。
そこには労働に対する畏敬の念が芽生えた。自分の想像力が一歩、前進した瞬間と思った。
たぶん、この想像力は昔の人なら当たり前に持っていた感覚で、自分が農業の厳しさを知らない、そもそもちゃんと働いたことが無い、現在の日本で労働をそう楽しんでいるように見える人が居ない、という部分に起因するように思われる。


今、他人の労働はどんどん見えにくくなって来ているという指摘も道場の中にあった。
物価がどんどん下がり、デフレで物が安い状態にみんなが慣れて来ている。
アマゾンの、一つの商品のページに通常価格と中古の安い価格が同時掲載されていると言うのも、確かに商品だけがそこにあり、それに対して複数の値段が付けられていれば、労働に対する想像力よりもまず、シビアに(自分にとっての)その物の妥当な値段を探るほうが優先されるだろう。

本も映画も服もヘアカットも、
「安ければいい」=「だれでもいいから付き合って」(泉木蓮氏談)
の状態から抜け出して、自分たちが生み出している価値に改めて目を向けて、
お互いの労働の価値を再確認しあうところから脱近代をはじめなければ行けないのかもしれない。
そうでなければ、今後もずっと、安いものが正義、経済成長が正義、という悪循環から抜け出せなくなる。誰もお金を使わずに、新しい世代は生まれず、私たちは年金をもらえない。
その結果、移民を受け入れるしかなくなる?!


日本人の倫理観として、労働に喜びを見いだす、という話があったのは、
私にとって斬新な視点だった。
ただ、今の労働者たちが働くことに喜びを見いだしているかどうかと言えば、疑問符をたくさんつけたくなるけれど、それでも「でも仕事が無かったら不幸でしょ(それは収入がなくなると言う意味以外においても)」という人は多いので、確かにそういう側面がある。
その感覚を、お互いの為にちゃんと大事にできれば、
価値観の再転換はそこから出来て、いい方に転がっていけば、と言うのが楽観的な見方かな。

お金は必要だけれど、それで自分たちの幸せを定義していたら、これからの時代ほとんどの人は不幸になるしか無い。経済成長を自分たちのアイデンティティに出来ていた時代は終わった。

再構築するべき価値を道場では「江戸時代に日本人が持っていた価値を取り戻す」、明治のスローガン和魂洋才の「和魂」と定義していた。
文明開化や敗戦、高度経済成長と長い過程を経て徐々に失われていったものが、
日本人全体として取り戻せるだろうか。
まだまだ自分には、その価値を検証するところからはじめなければ。

何が人のためになることだろう??


土曜日、私の後任としてブルキナに派遣される予定の人に会って来た。

ブログでも、「後任として誰か、ブルキナに来てください!」なんて書いたりして、
でもブルキナからの緊急退避もあって自分さえもブルキナに戻れるかどうか分からず、
なんとかブルキナに戻れた後は、配属先に協力隊の意義を認めてもらって
後任を要請してもらうことを目的に活動を進めた。

軍の騒動があった後と言うことで、大事をとって選挙までは新たな隊員を入れないと言うことになり、
私は去年の6月までで帰ってしまい、
後任がブルキナに来るまでに、1年半とか2年とか、長い時間が空いたらどうしよう、なんて思っていたけれど、
ほぼ1年で後任が来ることになったので、とりあえずは一安心!

そして、自分が後任を要請するために頑張ったこと、
後任の人が活動し易い環境を出来るだけ作っておこうとしたことが、
自分の中でも、本当にこれでよかったのだろうか、意味があったんだろうかとか考えていたけれど、
「まささんが前任でよかった」
と言ってもらったことで、全部報われた。


後任になる人は今のうちからすごく研究していて、フランス語も熱心に勉強しているし、
なんだか私の勉強嫌い、面倒くさがり、いい加減主義とは比べ物にならないくらいにいい人が後任として決まってくれたみたいで嬉しい。
自分が恥ずかしくなるくらいに。
私の経験から言えば、私みたいないい加減なのでもフランス語はいつの間にか出来るようになっていたし、なんとか活動も出来てたから、今のうちからあれだけやっていたら、もうなんにも心配いらないぐらいだと思うけれどな。いや絶対大丈夫だ。



ただ、私も隊員の時に悩んでいた、果たして何が本当にブルキナベの為になることなのか?という疑問に対しては、彼女も既に考えていたけれど、何がどうなることが幸せなんだろうか。
自分たちの価値をただ押し付けるだけになっていないだろうか。

私が見て来た限り、確かにブルキナには絶対的な貧困とか不足がある。
日本から来てみれば、余計にそう思うだろう。
他のアフリカ地域や南アジアでも同じような地域は多いだろう。
けれど、そこに暮らす彼らが絶対的に不幸な訳ではない。確かに貧困に悩んではいても、毎日家族や友人、動物たちや、究極を言えば地球と一緒に労働をし、おしゃべりをして楽しく過ごす彼らは、端から見てとても幸せそうだ。
そしてそれが実際に見せかけだけの幸福や充足感か否か、彼らと共に2,3日や一週間からでも過ごしてみればすぐに分かることだろう。

何ヶ月か前の朝日新聞で、幸せの国ブータンにも物欲の魔の手が伸びていると読んだが、ブルキナも同じような経済成長を遂げようとしたならば、それで手放しに「発展した、GDPが増えた」と喜べるだろうか。

そんな疑問が、活動している時からずっとあった。もちろん、発展しなければいいなんて言っている訳じゃない。経済成長することで救える命があったり、なくすべき貧困はある。
けれど、経済成長は何処までも手段で、彼らの幸せの価値を尊重したまま、彼らの生活環境の改善をする方法って何処にあるんだろうか。


所詮、ボランティアなどどこかおこがましい身分であり、常にその尊大な響きと裏表になっている偽善臭さを実感するべきじゃないだろうか?私はそう思うし、だからこそボランティアと名乗ることに抵抗を感じていた。
誤解を恐れずに言えばボランティアなんて、他人の幸福を勝手に、自分の価値観をもとに定義することなのだ。初期のいわゆる国際協力はそういう性質が強かったみたいだし、広い意味で言えば、人に優しくすると言うことは須くそういう行動である気がする。
そしてそうすると今度は、エゴと他人を尊重する部分のバランスが難しい。


土曜日のお昼ご飯は、静岡の山奥でとろろ♩ 渓月というお店。
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きれいに晴れて、くっきりと富士山が見えた!
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「まさか自分がひったくりに遭うとは思わなかった」という意識。


今回のゴー宣道場で、仮面ライダーとかのヒーローものとガンダムとかのロボットものの共通点が見つかった。
主人公が戦う動機についてだ。

突然、ガンダムの話が出てきた時には正直面食らったけれど、
ちょっとしてから冷静に考えたら、話がきれいに繋がった。
つまり、日本のヒーローは最初、戦う動機=正義を自分の中に持っていない。
よく分からないけれど戦いに巻き込まれて、その中で「友達や仲間を守るため」というスタート地点を見つけて、そこから戦うことの意味を膨らませていく。

逆に言えば、当事者意識のなさ。
自分が戦いの歯車になることへの拒否。
世界と自分が全く関係ないところで存在しているという感覚。
対岸の火事って思うところかな。

ひったくりや交通事故に、「まさか自分が遭うとは思わなかった」
と言って被害に遭う人のイメージ。

そこがアメリカのヒーローとの違いだなぁ。

偏見に基づかない正義を手にしておこう。


昨日のブログで書き足りなかったこと。

昨日の道場はすごく面白い話がたくさんあったけれど、
昨日書かなかった中ですごく印象に残ったのは、
たまたまAKBの話が出た時に、
「安倍晋三や片山さつきは寧ろアイドル」
という分析が出たこと。
つまり、安倍晋三や片山さつきといった政治家の現実や本質を直視せずに、
幻想を抱いてみていると。

アイドルは元々偏見、という意味だと言っていたけれど、
AKBには現実の面を直視せずに、夢を見て居たらいい。
でも、政治家を見るときにはそれではダメで、
丁寧に現実を直視して分析して、彼らの性格や見た目ではなく、
実際に掲げている政策、今までの実績、地盤、現在の政策実行能力などを
シビアに判断して行かないといけない。



それから、アメリカのヒーロー的な映画に特攻隊をモチーフにしたような描写がよく出てくることについて、
「特攻隊コンプレックス&核兵器使っちゃったコンプレックス」
というのも面白かった。
アメリカ人は何処まで自分たちに自己犠牲ができるかを悩んでいるのかも知れない。
今の日本人は…どうだろうか?自己を捧げる程の正義をいつも持っていたい、と昨日の道場で思った。



一番最後に言っていたけれど、民主主義の暴走が独裁国家だ。
独裁を許さないために、民主主義が絶対のものと思わないこと。
20世紀は君主制が、独裁のカウンターパートをつとめた。
昨日提示されたのは、自由主義と民主主義の対立構造だけれど、
21世紀は自由主義がこの民主主義の暴走を止めるためのカウンターパートになれるだろうか。
自由を支え続ける正義を、いつも自分の中に持ち続けていよう。

正義はある。


今日はゴー宣道場に行ってきた。
月曜朝からまた広島で仕事(?)なので、高速バスで東京に来て新幹線でとんぼ返り。
もっとゆっくりしたかったなーとか、色々思う。まぁしょうがない。

毎回、知らない人に「何しに東京行くの?」って聞かれて返事に困る。
ゴー宣道場って、なんて紹介したらいいんだろうか??
今回はテーマがまた「サブカルヒーローの本質にせまる」ってことだったから、
「なにそれ、どんな話するの?」って聞かれてもいつも以上に返事に窮する。
私も、行ったはいいものの、まじめに仮面ライダーの話とかされてもな、って思っていたし。
一応、見ておいた方がいいって切通氏のブログに書いてあった、バットマンのビギンズとダークナイトは見ておいたけれど、それもそればかり語られてもな、って思っていた。


朝、東京駅で友達と会って、子どもと目一杯遊んだ為に、特に腕と肩に疲労感を感じながら会場に行く。
なんかいつもの場所と違って明るく綺麗な会議室だ、って言ったら怒られるかな?
このテーマの為に、いつもより応募者が少なかったらしい。
なんかそうだろうとは思ったけれど、いつも以上に男性の比率が高いような気もした。

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さてさてどんな話になるのかと心配していたら…最初に小林よしのりが
「私は仮面ライダーが好きだ、なんて話をしてもしょうがない」
と言って今の日本の危機的な状況を前提に、と話したので、
空気は重くなったものの、ヒーローを通して考えるべき対象が浮き彫りになってよかった。
よしりんは左翼方面から、政治家になって新たな国家ビジョンを作り出してくれと誘われているらしい。
その誘いに迷ってしまう両方の理由が、分かる気がする。

いずれにしても、彼の言う通り政治や国家が全国民を十分に満足させるだけの働きをしていれば、それでみんな満足、平和な訳で、ヒーローも必要ない。
ヒーローが必要なのは秩序が保たれていないからだ。
ヒーローは民主主義を補完する役割と言う論はなるほどと思ったし、
バットマンが世界の秩序を守ろうとして悪(イスラム社会)を叩きのめそうとし、
結果世界から批判を浴びることになったアメリカ自身の苦悩を反映しているというのは
アメリカの心理がよく分かって興味深い。
そういうところがアメリカのヒーローの羨ましい点だと小林よしのりが言うのはすごくよく分かるし、もしかしたら私もアメリカのヒーローのようになりたいと思っているのかもしれない。
それをはっきり主張できるほどの強さは私にはないけれど、
正義を自分の中に求めること、それを実現するべきことと認識してその為の具体的な道筋もちゃんと作っていくことが出来るようになりたいと思う。

切通氏が言うように、悪の汚名を着てでも自分の信じる正義を貫く部分は、小林よしのりのゴーマニズムとバットマン、考え方が似ていると思う。バットマンの原作漫画も、見た感じがすごくゴー宣に似ているんだと。


日本も昔は怪傑ハリマオとかのすごいヒーローものがあったらしい。
そのハリマオを含めて、歴史的な話をされても自分にはピンと来ない部分が多く、
頭では理解できるつもりだけれど、それを実感として持つことは難しかった。

ただ、過去はどうあれ、今以降のヒーローとヒールの対立のように、政治の部分での対立も民主主義と自由主義の対立に移り変わっている、という分析には驚いた。でもそうかも知れない。
マイケル・サンデルの正義論も、多数提示された正義からあなたはなにを選ぶか、という内容だった。
これが流行ると言うことは、日本でも正義を個々の中に求め、
その実現を求めて生きていこうとする人が増えているからだ…といいけれど、
実際には価値相対主義とかニヒリズムっていうのが蔓延している。

自分自身、それから日本としてどういう正義を実現しようとするかと言うのは、これからもっとちゃんと考えていかなければいけないことだなと思った。
ただ日本がもっと経済的にうまくいくとか国際会議でイニシアティブをとるということだけでなく、
自分たちのアクションを、どのような未来につなげる為に紡いでいくか。
それはもしかしたらアメリカのように軍事力を持って行うことかも知れないし、
もっと平和的にODAその他の武器を使ってやっていくことなのかもしれない。
ただ友好とかってんじゃなくて、秩序というか、よりよい世界の実現の為に。

今までは、協力隊に参加した時も、そういうビジョンが自分の中に欠けていたし、
せっかく協力隊に毎年何百人もいっているのに、そこまで考えている人は
あまりいない気がする。本当はすごいチャンスかもしれないのに。
価値相対主義を抱えて途上国に行っているっていうのは、すごく勿体ないことだったと今は思う。


これからの自分は、そう言うことをもっとちゃんと考えて行こう。

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